小雨が降る音で俺は目を覚ました。時計を確認したら、朝になっていた。俺は寝ぼけて働かない頭で、隣のベッドが空っぽになっていることに気づく。


「あ、もう起きたんだ。意外と早かったね」

 奥のキッチンから聞こえる小絵の声色は、実に楽しそうだ。

「まだ寝ててもいーんだぞ?」

 近づいてきて俺の前髪を触れるか触れないかで撫でながら、茶目っ気たっぷりに話す彼女の口調が好きだった。

「ん……じゃあ、もう少しだけ」

「お昼には起きてね。……じゃないと、」

 飽きるほど見つめてきた小絵の黒い瞳が、いつもの焦れったいスピードで近づいてくる。

「嫌いになっちゃうんだから」





 小雨が降る音で俺は目を覚ました。窓の向こうは雨が音もなく降っていて、ベッドに横たわっているのは俺一人だった。夢と違うのは、小絵がいないこと――あれが夢で今が現実だと分かる手がかりはもはやそれだけだった。

「……またか」

 別れた彼女の夢を見るなんて、未練がましいにもほどがある。



 目が覚めたら彼女を愛していない自分が生まれてしまうのではないかと思っては苦しんだ。この上なく、今までになく彼女を思っていたからこそ、俺はこの気持ちの終焉を何よりも恐れた。

「ごめん、違う人と幸せになってくれ」

 言えるだけの理由はすべて話した。拙い説明だったかもしれない。そのせいで一番言いたかったことが彼女に伝わってなかったとしても、それは俺の限界なのであって俺のせいだ。決して彼女のせいではない。

 こんな風にしか考えられない俺の側に彼女を置いてはいられない――そう思うがゆえだった。



 小絵と一緒にいることがどんな時間よりも穏やかで、いつしか俺は小絵なしでは生きられなくなるような気がしていた。小絵に心の全てを許して寄りかかることはとても幸せで、こんなに心の休まることはないと思っていた。

 「お前のことが好きだ」――そう言ってしまえば気が楽なのに、「好き」という言葉だけでこの気持ちを伝えきれている気がしなくて、それ以外の言葉を探しているうちに小絵への思いはただ募るばかりだった。本音を言えないままただ日にちが経っていくことに俺は苦しんだ。いつしか「本音」は清らかで実直な小絵に対する嫉妬や、重ねても重ねても満たされない愛情に支配されてその形を歪めていった。俺はその心模様に汚されていく小絵の幻想を見るようになった。



 出会った頃の自分たちが眩しく見えた。些細な偶然を二人で数え、些細な勘違いに揺れ、しかしそれでも小絵といれば、どんなことも彼女のはにかんだような笑顔に繋がっていくのだと心から信じていた。苦しいと思ったときには小絵が頭を撫でて抱きしめてくれ、小絵が苦しんでいれば夢の中だけでも笑顔にしてやりたいと願いながら抱きしめて眠った。

 俺みたいにどうしようもない人間が、素直で正直な小絵に出会って、命に代えてでも彼女を守りたいと思うほど好きになり、彼女の傍にいつもいられている現実は確かにあった。これ以上の幸せなんてない――それなのになぜ俺はこんなにも苦しんでいるのか分からなかった。小絵を大切に思えば思うほど締め付けられる胸の痛みは日々増していった。夢の中で小絵を失い、悲しみに暮れながら朝を迎えることが多くなっていった。



 伝えたい思いは掃いて捨てるほど心に溜まっていた。言いたいのなら言ってしまえばいい。「好きだ」と言うことのなにが難しいんだ? 言いたくないのならこんな気持ちなど持たなければいい。でも、そんなことできなかった。本当に掃いて捨ててしまえたらどんなに楽かと思った。なぜ俺は小絵から離れることを決めたのか?

 小絵を俺だけのものにしてしまいたい。誰のものにもしたくない――俺の「好き」なんて、その程度の低俗な気持ちでしかないのだと、気付いてしまったからだ。もし俺が素直になっていたらきっと、小絵は俺の傲慢なわがままに愛想を尽かしてしまっていただろう。こんなに好きなのに、この気持ちが理由で小絵に嫌われることほど辛いことはないと思った。

 俺は自分のことを、小絵の隣にいるべき人間ではないと自覚し始めていた。小絵の隣には、本当に小絵のことを誰よりも考えてくれる人の方が相応しい、俺のような自分の傲慢に飲み込まれて苦しむような人間はいるべきではない――そう思った。好きでいることを辛いと思い、離れれば楽になると思っていた。

 それなのに、このザマだ。俺は小絵なしならどこまででも堕ちていける。



 俺の「好き」という気持ちがこれほどまでに汚らわしいものなら、その気持ちを無理矢理否定したところで大した問題ではないと思った。俺のことしか考えられないような人間と一緒にいたら、小絵もいずれどうにかなってしまうと、思っていた。俺が小絵にとって一番の害であるような気がして、それでも小絵は俺みたいな奴を本気で思っていてくれているんだと思うだけで、俺は辛かった。死んでしまいたいとさえ思った。俺は人を好きになる資格も好かれる資格もない屑なのだから。

 嫌われてしまえば、好きでいる理由がなくなると思った。離れてしまえばどうしたって好きでい続けることはできないだろうと思った。

 しかし離れたところでこの苦しみも、小絵への思いも何一つ変わりはしない。

 会いたい、会いたい、ただ小絵だけに会いたかった。小絵と離れてしまってから俺の頭の中はそればかりで、俺は自分の未練がましさとそれを生み出す傲慢さに恐れ戦いた。



 好きなときに「好き」と言ってくれる小絵にいつも憧れて、だからこそ小絵が好きだった。こんな俺のことを幾度となく受け入れてくれる小絵を、失いたくないと思った。もっと、小絵の近くにいたいと思った。いつどんなときも俺のことを考えていてほしいと思った。

 そんな自分がおぞましいほど身勝手なように感じ、小絵を思う気持ちが膨らむ度に自己嫌悪の渦に溺れる毎日が続く。それは同時に、小絵との別れが辛いと知ることで、あの日々が幸せだったことを知る――そんな毎日だった。

 小絵、お前に会ったら話したいことは沢山あるよ。でも、本当に会えたらきっと何も言えないんだろうな。もしお前に会えたなら、また俺は素直になれないだろうから。笑ったり泣いたり拗ねたりするお前を見て、それだけで満足してしまうような男だから。

 目の前にいない小絵を思うと、素直になることはなんてことないと思えた。

 別れの辛さと本当の幸せを最後に教えてくれて、ありがとう。

 ありのままの気持ちを言葉にしたいと思った。






 小雨が降る音で俺は目を覚ました。

「どうしたの? なんか、うなされてるみたいだったけど……」

「さ、小絵……?」

 一人用の安いベッドには、俺と小絵が並んで寝ていた。俺の隣には、小絵がいた。

「悪い夢でも見た?」

「小絵と、別れる夢だった……」

 冷や汗にまみれた俺の言葉に、小絵は一瞬言葉を失った。俺は詳細を続けた。

「俺が小絵をふるんだ。でも、小絵がいなくなったことをずっと後悔して色々考えてるんだ」

 喪失の疑似体験。それに伴う悲しみは、もはや疑似とは言えない質感を持って俺を襲ってきた。

「そう……だったんだ」

 小絵はかけるべき言葉を探しているようだった。

「でも小絵の傍には俺よりももっと頼りになる奴がいた方がいいと思ってるよ、いつも」

 そう、いつも。小絵が幸せになることを願っていることとそれは、俺にとって同じ意味を持つから。

「俺のつまらない嫉妬が、依存が、お前から笑顔を奪うことになってしまうのだとしたら……俺の本当の気持ちを小絵に打ち明けて小絵に負担をかけるくらいなら、本音なんてものは押し殺してそのまま俺も死んでしまいたい」

 “死んでしまいたい”だなんて――お前は俺の全てなんだと、なぜ言えない? 同じ気持ちなのに、どうしてこうも言葉を選ぶことが出来ないのだろう。

「どうしてそんな風に思っちゃうの? あなたの気持ちくらい、私にだって分かるよ」

「でも俺じゃ、駄目なんだ。いつお前を……小絵を悲しませるか分からない」


 
「それは、誰よりも私のことを思ってるからって解釈するよ?」

 小絵はニッとあげた口角に一筋の涙をこぼした。

「大丈夫よ。どうしてもそう思うのなら……」

 自分の涙を拭った指で、小絵が俺の涙を拭ってくれた。

「私、どうなってもいいよ」

 優しく俺の頭を撫でる小絵の手の平が、俺の目から涙を誘う。

「小絵……」

「私は、あなたじゃなきゃ駄目なの」

 何度、こうしたいと思っただろう。彼女を抱き寄せ肌の温もりを確かめながら、小絵の細い髪を右手で梳いた。

「小絵がいないともう、俺……」

 二人分の温かな水滴が溶け合って、俺に少しだけ素直さをくれた。





 小雨が降る音で俺は目を覚ました。時計を確認したら、朝になっていた。俺は寝ぼけて働かない頭で、隣のベッドが空っぽになっていることに気づく。

 俺はひどく幸せな夢を見ていたらしい。指にはまだしっとりと絡まる細い髪の感触が残っていた。



【了】



《あとがき》
 思っていることをぶつけるようにただ書きなぐった感じになってしまいました。今の私にはリハビリが必要なようです。
 夢の中で彼女に会っていたのか、彼女と元通りになったから幸せな夢を見ていたのか。最後の段落はどちらにとっていただいても構いません。好みでしょう。
 たとえ現実で胸を痛めるほどの思いをしても、それを文章にするのはいつもとても難しいと感じます。


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