染井そめい莉子りこは、3人姉妹の長女としてこの世に生を受けた。聡明かつ温厚な父と、厳格に振る舞いながらも根は優しい母の温かな愛情と真っ当な教養を施されてすくすくと育った。
 染井香乃かのは、3人姉妹の三女としてこの世に生を受けた。裕福で幸福な家庭で、なんの不満も不自由もなく育った。純粋で無邪気で甘え上手な彼女を、可愛がらない者は誰もいなかった。
 だが――裕福で幸福な筈の染井家の次女として生まれ育った染井莉乃りのは、悩んでいた。
「……」
 それなりに大きな会社を持つ父の持ち家の中から莉乃に振り分けられた広い個室の出窓の外を見下ろす傍らで、彼女は自らの暗い胸の内を持て余していた。
 莉乃の暗い心情を反映した、暗い双眸。それは家の外に咲いているソメイヨシノの花に向けられている。
 満開の、ソメイヨシノ。眺めていると、ほんの少しだけ落ち着いた気持ちになれる。
 莉乃の悩みの種は、他ならない。家族にあった。
 父と母、姉の莉子と妹の香乃。毎日を幸せそうに過ごしている4人には、莉乃が長らく抱え続けている悩みなど想像も出来はしないだろう。
 どうして、私だけ。莉乃は、静かに目を伏せる。
 どうして、私だけ。誰にも愛されないのか。

 * *

 莉乃は今年、中学2年生になった。姉の莉子は、高校2年生。そして、妹の香乃は――小学4年生。
 そう。妹の香乃だけ、やや歳が離れているのだ。実はこれこそが、自分の悩みの最大の要因なのだと莉乃は気付いてしまっていた。ずっと昔から。
 莉乃が愛に飢えていたのは、昔からだった。
 香乃が生まれるまでは、莉乃は莉子と玩具の取り合いなどで頻繁に喧嘩をしていた。負けるのも泣くのもいつも妹である莉乃だったが、これ自体はどこの家庭にも見られる光景で誰も問題にしなかった。莉乃自身も、これについて今更莉子を責める気もない。
 問題は、香乃が生まれた後だ。
 香乃が家族の一員となって以来、莉子は余り莉乃を構わなくなった。理由は、手に取る様に分かった。
 莉子と莉乃は3つしか歳が離れていないのに対し、莉子と香乃はゆうに7つも離れているのだ。加えて、香乃は生まれたばかりで愛らしい。莉子の興味が香乃に移るのは、至極当然と言えるだろう。
 更に、両親も幼い香乃の世話に時間を使った。
 両親も莉子も、香乃に愛情を注いだ。
 羨ましかった。莉乃は香乃が羨ましく、妬ましかった。遂には、疎ましく思う様にさえなっていた。
 香乃が、家族の愛を独り占めしている。
 仕方のない事だと頭では分かっていても、当時の莉乃には酷く堪えた。香乃を唯一の妹として愛おしむ反面、自分から家族の愛を奪った張本人として憎んでもいた。香乃への2つの感情が、莉乃を苦しめた。
 けれども、莉乃は必死に我慢を続けた。いずれ香乃が成長して手が掛からなくなれば、家族の愛は莉乃にも香乃にも平等に注がれる様になると信じて。
 しかし、莉乃の願いは天に届きはしなかった。
 長年家族に甘やかされてすっかり甘えん坊に育った香乃は、赤子の時とさして変わらず両親や莉子に存分に甘える日々を送った。何年も、何年も。
 そして、無邪気に自分を慕って来る香乃に気を良くした両親と莉子は香乃ばかりに構った。
 香乃のおねだりに、ほいほいと応える3人。香乃と2人で仲良く遊ぶ、莉子。莉乃は胸中の悲しみと寂しさ故に、ほぼ毎日自室で人知れず啜り泣いていた。
 私も、仲間に入れて。こう言えば、家族も莉乃の苦しみに目を向けてくれたかも知れない。が、莉乃にはそれが出来なかった。香乃ばかりが愛された長い年月が、莉乃の心に絶対的な疎外感を植え付けていた。
 莉乃にはもう、家族とどう接して良いのかが分からなくなってしまっていた。家族にどう甘えて良いのかが、全く分からなくなってしまっていた。
 莉乃は家族との深い溝を埋められないまま、あっという間に中学2年生になっていた。
 中学2年生。多感な時期だ。莉乃は今でも悩み、苦しんでいた。救いと言えば学校の友達の存在と、自室で過ごす1人の時間のみ。
「嫌だ……嫌だよ……」
 自室に籠って泣き言を呟く、莉乃。
 自分も、香乃みたいに愛されたい。両親や莉子みたいに、香乃に慕われたい。でも、無理な話だ。既に何もかもが、完全に手遅れなのだ。
「莉乃ー」
「!」
 部屋の外から莉子の呼び声とドアのノック音が聞こえて、莉乃は慌てて泣き顔に近い惨めな表情を引っ込めた。速やかに歩み寄ったドアを開けると、ドアの向こうに佇んでいた莉子は莉乃にある頼み事をした。
「ねえ、莉乃。ちょっとあたしの代わりに、文具屋さんに行って来てくんない?」
「え? なんで文具屋さん?」
「あー、あのね。香乃が学校で新しく要るって言ってる物を、あたしが買いに行く約束だったのよ。でもあたし、急用が出来ちゃってさ。そんで、あんたに」
「……」
 莉乃は密かに、唇を噛んだ。
 まただ。また、香乃。莉乃が知らない所で交わされた、莉子と香乃の約束。自分の器の小ささを自覚しつつも、莉乃は自分だけが仲間外れにされた様な気持ちになってこの場で泣き出したくなった。
「……うん。分かった。良いよ」
 莉乃は答えた。そう答える他、なかった。
「ありがと。助かる。これ、メモね」
 ゆるキャラのメモ用紙を莉乃に手渡し、回れ右をして階段を降りて行く莉子。彼女の背を見送った後、莉乃は暗い想いで文具屋に出掛ける支度を始めた。

 * *

 自転車を走らせて、程なく。文具屋に到着した莉乃は、店員達の朗らかな挨拶に迎えられながらメモに記された数点の商品を探して回った。
 途中――莉乃の視界にメモにはないある商品が映り込み、莉乃の視線はその商品に釘付けになった。
「そうか……そうだよね」
 莉乃は久方振りに、心から笑えた気がした。
 何故、気付かなかったのだろう。何故、思い至らなかったのだろう。こんなにも単純で、簡単な方法があるのに。莉乃の悩みを、打ち砕く方法があるのに。
 私はやっと、やっと解放される。

 * *

「あれー? 莉乃お姉ちゃん?」
 帰宅してリビングに現れた莉乃を見て、宿題を片付けていた香乃が小首を傾げた。
「莉子お姉ちゃんはー? どこ行ったのー?」
 無邪気な香乃に、莉乃は微笑んだ。
「姉さんはね、用事が出来たんだって。それで、私が代わりに買いに行ってたんだよ」
「そうなんだー……」
 どこか残念そうに返す香乃の前で、莉乃は文具屋のビニール袋から1つの商品を取り出した。
「莉乃お姉ちゃん? 香乃、そんなの頼んでな――」
「うん。知ってるよ。香乃」
 笑みを崩す事なく大きく音を立てて商品を丸裸にした莉乃は、ゴミを投げて捨てて商品を瞳の高さまで持ち上げた。大型の、カッターナイフを。
 莉乃はきょとんとする香乃におもむろに近付くと、限界まで伸ばしたカッターの刃を無防備な香乃の頸動脈に力任せに突き刺して強く真横に引いた。
「ぎぇ」
 香乃の喉が、おぞましい『音』を発する。
 香乃の頸動脈を切り裂いた莉乃とカッターナイフは凄まじい返り血を浴び、リビングは家具やフローリングの床や純白の壁に加えて天井までもがあっという間に深紅一色に塗り潰された。

「きっ、きゃああああ!」

 恐怖に支配された絶叫に振り返ると、用事を終えて帰って来たらしい莉子と視線が合った。
 物言わぬ屍となって鮮血の海に崩れ落ちた香乃と、妹達の惨劇を目の当たりにして腰を抜かす莉子。恐怖と驚愕に見開かれた莉子の双眸は、依然として微笑む莉乃を凝視している。言葉も出ない様子だった。
「あ……あ……っ」
「姉さん、お帰り」
「莉乃、あんた――」
「香乃がいなくなって、寂しい? 私は、嬉しいよ」
「な、何を……!」
「大好きな香乃がいなくなって寂しいなら、姉さんも香乃の所に行く? うん。きっと、それが良いね」
「莉乃……なんで、どうして!」
 何も分かっていない、莉子。しかし、最早関係のない話だ。莉乃は血に塗れたカッターナイフを握り締めて、今度は莉子の元へと近付いて行く。
「安心して。後でお父さんとお母さんも、香乃の所に送ってあげるから。そうすれば邪魔者の私を除いた4人で、今まで通り笑って暮らせるでしょ?」
 第2の血飛沫が上がり、第2の屍が完成するまでにさして時間は掛からなかった。
 他ならぬ自分が作り出した姉と妹の屍を見下ろす莉乃は、暗く笑い――同時に、暗く泣いていた。


‐終‐

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -