どんなに気分が沈んでいてその日を生きるだけで精一杯に思えるような朝でも、私は一日が始まることを憂いたことはなかった。
「ショウ! おっはよ!」
たたたっ、と廊下を駆け抜けて、他の誰でもない私に飛びついてくる小さな少女に会う、朝一番。
「朝から元気だな……。将来高血圧で死ぬよ?」
「な、なにそれー!」
私のことをショウと呼ぶのは、中学から3年来の友人である福原なのはだ。「山下菖蒲なら、“ショウ”でいいよね!」という彼女のこの一言以来、私は“ショウ”と呼ばれている。
「あ、ショウさん」
「ショウさん、おはよう」
しかし、他の級友達は「ショウ」ではなく「ショウさん」と呼ぶ。
「ああ、おはよ」
別に気にはしていない。隣でナノが「あたしには『おはよ』って言ってくれなかったのに! 差別だ差別!」と騒いでいるけれど、それも気にしない。
「チョコのあの後味が嫌なんだよ。酸っぱいじゃん?」
「ショウの気持ちなんかどうでもいいの! 渡す側の気持ちだからいいの!」
私たちの話は目前に控えたバレンタインデーに移る。ナノが私に、なにが何でもチョコを渡すんだと言って聞かない。
「どういう論理だよそれ……」
私よりも小さいくせにピョコピョコと私の周りをつきまとう彼女の身振りは私よりも大きい。
「……どうせショウは本命のあの人に渡すんでしょ!」
「違うって言ってるでしょ。……ナノ、声が大きい」
「いいもんいいもん、私のチョコなんかただの箸休めなんだー」
ポコポコと私の肩を両手の拳で殴りつけてくる。いつものことだけど、割と痛い。
ナノは本命とかいうけど、別にそんな人はいない。何かと誰かしらに因縁を付けては、勝手にナノは私に近い男子を敵視する嫌いがある。最近のナノの敵は、私のことを「ショウ」と呼ぶクラスメートの岩瀬明紀だ。
「よ、ショウ。毎度福原のお世話が大変だな」
「世話とはなんだ!」
ナノが岩瀬の一言に即座に反応する。
「お前に声かけたんじゃねーよ、ははは」
「うるさいっ。私のショウに近づかないで! そんでもって『ショウ』って呼ばないで!」
こうしているうちに、ナノの周りには男女関係なく人が集まる。そんなナノを私は隣にいながらもどこか遠い目で眺める。
「別に、私もナノのこと世話してるだなんて思ってないから」
私はこうして優しくもなく冷たくもなくナノをあしらう。それが私たちの常だから。
「そーよそーよ! 『世話』だなんて失礼だぞ!」
「ナノが勝手に私にまとわりついてるだけだしね」
「ちょ! それひどいからっ」
私たちの周囲でどっと笑いが起こる。ナノの一言で、誰もが朗らかな笑みをこぼす。
ナノだからできること。私には到底、できないこと。
今日はあんなことがあって、あの人にこういうことを言われて……こんな風にナノの話は日記のように続いて終わらない。私たちの会話は、ナノの話を私が聞くだけで終わることの方が多い。話すのが下手な私にとってそれはとてもありがたく、ナノの話は日常に対する鋭い視点が盛りだくさんで、聞いていて飽きたことは一度もなかった。
私は、ナノのように過去に起こったことを思い出すことを好まない。昔書いていた日記を三つ下の妹に見つかって読まれて、ページの最後に感想まで書かれたことを未だに引きずっていて、あれ以来日記を書くことは愚か、自ら進んで過去を振り返ることもしていない。どうしても、過ぎ去った時間の跡を辿ると、誰かに見られているような気になって気持ちが悪い。
過去を振り返っていると、どうしても後悔がつきまとう。分かっていても私は、過ぎ去ったことに対する執着を捨てきることができずにいた。たとえ現実では大した問題になっていなくても、もっと最善の方法があったはずだと思っては、過去の自分の選択・行動を責める。そんなことをしても時間の無駄だということは、十分承知の上だった。
どうして私なんかと一緒にいるのに、こんなに楽しそうに笑ってくれるんだろう。私はいつも、ナノの笑顔に救われていた。それなのに私は、天真爛漫なナノの笑顔にかまけて冷たいことばかり言ってしまう。
どんなにナノといる時間がかけがえのないものだと思っていても、私はそれを私の中に封印するに留まっていた。そんな自分が、大嫌いだった。
昼休みはナノと二人で空き教室を見つけてお弁当を開く。私は別に教室でみんなと食べた方がいいのではと何度となくナノに提案していた。ナノが教室にいた方が、クラスの雰囲気はもう一段階明るくなる気がするからだ。しかしナノは私の提案を断固として聞き入れない。「教室で食べたら、私のショウが誰かに取られちゃう……その間私は誰と喋ればいいか分かんないじゃん!」との言い分である。
いつものごとく、ナノの話が始まった。朝あまり話ができなかったので、昨夜ナノの家で起きた面白いエピソードから始まった。
「……ね、すごくない?」
「それはすごいね」
ナノの話はちゃんと聞いているけど、“ちゃんと聞いている”という態度の示し方を知らない私は、平凡な相づちを打つことしかできない。
「ショウは、あんまり自分の話しないよねー」
今まで流れていった話と全く同じテンポでナノがそんな話を挟んだ。
「別に私は気にしないけど、ちょっと寂しいかな、なんて」
そう言いながら、たこ型の赤いウインナーを口にぽこっと含んだ。
ナノのように過ぎ去ったことも楽しく話せるような人間だったなら、私は喜んで自分の話をしただろう。ナノをもっと楽しませることができるのなら、ナノの笑顔が自分に向けられるのなら、その選択肢を選ぶに決まっている。
「私は、思い出して楽しむような人生を送れてない。ナノは楽しいかもしれないけど、それはナノが私と違うから」
でも、私にはできないのだ。いつもの軽口で、終わってくれない自分の口を止められなかった。
「こうやって他人の幸せを妬んで自分のことを不幸ぶるんだったら――私なんて、いなくていい」
「やだ! やだやだ!」
ナノが耳を塞いで私の言葉を制した。
「そんなの、もう聞きたくない。……悲しくなるから」
悲しくなる、それはきっと、心優しいナノが私のつまらない悩みに同乗してくれたからだと思った。
しかし、予想は少し違っていたようだ。
「ショウは私のことただの友達くらいにしか思ってないのに、私ばっかりショウのこと好きで、こんなに好きなのにショウのこと何も分かってなくて……。ごめんね、私、ただのバカじゃん」
そういって、さっきよりも一際大粒の涙を流してはそれを両手で拭っていた。ぐずっ、と鼻をすするナノを目の前に、私はどうしていいか分からなくなった。
「ただの友達」――そんな風にナノのことを思ったことは一度もなかった。どうして私はいつもナノのそばでナノの話を聞いていたのか。その理由は、いたことも考えたこともなかった。
……照れくさかったんだ。考えるだけでも、恥ずかしかったんだ。
私を傷つける言葉を私が言うことで、ナノが傷つくなんて思いもしなかった。私のせいだ。私の素直じゃない一言一言をナノはいつも気にしていて、少しずつ少しずつ傷ついていたのかもしれない。
ごめん――今じゃもう、こんな言葉をかけることさえも申し訳なく感じた。あまりに今更すぎて、この言葉を口にすることはできなかった。
「ナノといる時間は、私にとって必要な時間なんだよ」
でもナノに伝えたいことなら、「ごめん」以外にも沢山あった。
「ナノの隣で救われる人は沢山いるかもしれないけど、私の隣は、ナノだけだ」
その小さな身体をぎゅっと抱きしめてあげると、ナノが、うっと嗚咽を漏らした。
「だから、もう泣き止んで……」
普段はあんなにぶいぶい言いながら私の隣をふてぶてしく陣取っているのに、どうして今はこんなにしおらしいんだろう。
「ショウ……大好きだよー」
抱きしめるほどにナノがいとおしくて、私は束の間の時を忘れた。
しばらくすると、ナノの呼吸も落ち着いてきたのが分かった。どのくらいの間こうしていたんだろう。離れると、どちらからともなく照れたようにはにかんだ。
「女同士でこんなの、変だよね……」
ナノが気まずそうに呟いたとき、私の鼓動はドクンと大きく鳴った。私はその場から逃げるように走り出した。
「あ、ショウ! なんで逃げるのー」
バタバタと階段を駆け下りて追いかけっこをしていると、笑いが止まらなかった。声をあげて笑いながら、教室前の廊下を二人で駆け回った。
どうして逃げ出したのか? ――そんなこと、照れくさくて言えない。
「ショウ、あの、これ……」
ピンク色のかわいらしい袋を、両手で捧げるようにして渡すナノ。今日は二月十四日、バレンタインデーだ。
「き、気持ちはちゃんとこもってるから」
言われなくたって、ナノならそうするだろう。それでも、わざわざ気持ちを言葉にして伝えてくれたのが、私には嬉しかった。
「へえ、手作り?」
この前のことを気にして、気をつけていつも通りよりも優しめの調子で聞くと、ナノが呆けた顔をした。私は憮然として聞かずにはいられなかった。
「……なに、その顔」
「だって、なんかいつものショウじゃない……優しいショウ、変!」
「要らないこと言うと、チョコ貰ってあげないよ」
「それはもっとやだ!」
ナノの頭をさっとひと撫でして、押し付けられた包みをさっと剥がしチョコを口の中に放り込む。
「うん、美味い。……甘過ぎないのがいい」
素直な感想を述べてみせると、私の舌の上で冷たく溶ける手作りの生チョコのように、ナノの顔がふにゃりと崩れた。それがとても、かわいらしかった。
【了】
=====あとがき=====
ちょっぴり読みやすくなるように、ライトに書いてみました。これくらいの長さの話を書くのもひさしぶりです。とはいえ、せっかくのバレンタイン企画にどうしてこんな作品が出来上がったのか、自分でも若干謎です……。
仲がいいと、つい言っていいことと悪いことの区別がつきにくくなりますよね。なれ合いのせいで、「これくらいは大丈夫だろう」という自分の中の基準がどうしても緩くなってしまいます。どこまで許されるのか、どこまでを本気にしてとるのか、親友同士で今一度確かめてみてはどうでしょうか。
最後に、ちょっとしたことなのですが、本文の中に友人から聞いたエピソードが一行混ざっています。何も言わずに使うのもアレなので、ここで報告とさせていただきます。
作品は一話完結ですが、ホワイトデー企画ではこの続きを書いてみようと思います。
【続編「言いたくないこと」(ホワイトデー企画)は
こちらから】