暑い日は苦手だ。汗が止まらない。特に僕は鼻の頭からの汗が酷い体質で、ただでさえ爽やかさのかける顔をしているのに、より油っぽさが際だってしまう。誰に何を言われたためしはないが、この季節になるとひっそり落ち込んでいる。
 都会独特の喧噪の中、僕は横断歩道の信号が青に変わるのを待っていた。天からの、そして地からの熱気。暑さを倍増させるアスファルトの重い黒。熱のこもる天と地の間には、僕と同じく信号待ちをしている大勢の大人達。見上げた先には硬質な高層ビルや、その壁でアイドルを大写しにしている巨大なテレビパネル。耳を澄まさずとも勝手に耳に入ってくる車のエンジン音と人の声の塊に不快感を増しながら、僕は歩行者用信号の横の逆三角形を睨みつける。信号が青になるまでの時間を知らせる、黄色と赤のグラデーション。徐々に減っていく目盛りを見つめながら、ハンカチで鼻の頭を撫でる。
 横断歩道の向こう側にも、こちら側と同じくらいの人間が身を寄せ合ってうごめいている。餌に集うアリを思わせた。けれど彼らはアリではない。アリは餌を求めて大地を歩き回り、餌を見つけて歓喜する。彼らは――道路の反対側でうごめく人間達は、餌を求めてはいないし、一カ所に集っているからといって何かに歓喜しているわけでもない。彼らも、そしてこちら側で彼らと同じように集いうごめいている僕らも、何かを求めているわけでも何かを見つけて歓喜しているわけでもない。
 では、なぜ、こんなところで寄り集っているのだろう。
 ザ、と隣の人間達が僕を追い抜いていく。ハッと顔を上げて、視界の中でぽつりと光る青緑色を確認する。後ろから次々に人間達が歩み出してくる。さながら波だ。海の向こう、遥か彼方から押し寄せてくる物質の流れ。その波に押されるように僕も歩き出す。
 向こう側の人間達も、大きな波のように勢いよく僕に迫ってくる。僕はその波に向かって歩み寄っていく。僕の前からも、後ろからも、人間の群れからできた厚い波は迫ってきている。挟まれるような錯覚。胸の前と背中の後ろに僕の身長ほどの板が立っているような、そしてそれらが長年を経て再会する恋人達のように、ためらいもなく、遠慮もなく、僕の存在を気にもせずに駆け寄り合うかのような――圧迫感。
 たくさんの足音が僕の前後からにじり寄る。僕は素知らぬふりをして、その足音の一部にならんばかりにアスファルトを踏みしめる。僕は挟まれる側ではなく、他の誰かを挟み潰す側なのだと、恋人達の狭間で気にもとめられないまま踏み潰されるアリとは違うのだと、背中を反らして胸を張り、背伸びをして人間らしい身長を周囲に主張する。
 横断歩道の真ん中に近づく。向こう側の人間の波とこちら側の波が交差する。潰される――前から、後ろから――そう思ったのは一瞬のことで、あっけなく二つの波は互いの中へ溶け込んでいく。
 潰されると一瞬でも思ってしまったのが馬鹿らしくなるくらい、鮮やかに、人間達はすれ違っていく。僕は真っ直ぐ歩いているはずなのに、真正面から来る人間達の間を見事なまでに軽やかにすり抜けていく。生き物の呼気が作り出す鬱屈したむさ苦しい空気が、人々の生ぬるいにおいをまといながら、やがて僕を包む風となる。ハンカチで鼻の頭を撫でる。じわりとハンカチにしみこんでいく汗。気持ち悪さを拭い取るように、少し強く鼻先を擦る。
 横断歩道の果てが近付いてくる。広告を次々に投影していくビル壁の巨大電子パネルとは正反対の、田舎の寂れた無人駅を思わせる青緑の光が、眼前にぽつりと光っている。人間の波に潰される危機の終わりを告げる光だ。
 どこからかクラクションのけたたましい音が聞こえてくる。僕は車道を渡り終えるというのに、僕の見つめる先では、人間達がぞろぞろと車道に踏み出していく。終わらない行列、アリよりも密集した人間の群れ。
 彼らはアリではない。餌を求めているわけでも、獲物を見つけて歓喜しているわけでもない。けれど、彼らは――僕らは、どこかを見つめて、どこかを目指してただ進んでいく。ぶつかり合うことも潰されることもなく、ただ黙々と。
 彼らには、僕らには、何が見えているのだろう。
 青信号の下を通り抜けて、横断歩道の終わりを示す低い縁石を踏み越える。途端、僕と同じ方向を向いて横断歩道を進軍していた人々が、蜘蛛の子を散らすようにパッとあらゆる方向に散っていく。たった一人、僕は行き先を見失って立ちすくみかける。歩みを緩めた僕の背中に誰かがぶつかってきて、邪魔だと言いたげに舌打ちされた。
 話し声や靴音や電子音や機械音がごちゃまぜになったものが、僕の耳に入って鼓膜をめちゃめちゃに叩いていく。人の吐息の塊が、排気ガスの塊が、アスファルトからの熱気が、僕を包んで視界をゆらめかせる。
 僕は歩みを進めた。餌を探すアリのように、どこかふらついた足取りで、どこかを見つめて。

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