雪菜は、周囲の皆が羨むほどの幸せ者だった。
 温厚で仲睦まじい両親の深い愛情を受けてすくすくと育った、天真爛漫な子供。他の親族や近所に暮らす大人達は、そんな雪菜をこぞって可愛がった。
 活発でもあった雪菜は幼稚園でも小学校でも男女問わず沢山の友達に恵まれ、同年代の子供達との関係も完璧だった。彼女は文句の付け所がない、幸福な毎日を送っていた。その異変が、起こるまでは。
 異変が起きたのは、雪菜が中学校に進学した頃。あんなにも仲睦まじかった両親が、離婚をした。それが雪菜の幸福に、致命的な陰を落とす結果となった。
 離婚の原因は、ただ1つ。父親――いや、父親だった遠山春彦(とおやまはるひこ)の浮気だ。これには彼を知る誰もが驚き、誰もが我が耳を疑った。
 離婚成立後、近森夏絵(ちかもりなつえ)の名に戻った母親は雪菜を連れて家を出た。そして、自身の故郷である他県へ。そこは雪菜が住み慣れた家からは途方もない距離があり、彼女は長い年月を掛けて培ってきた全ての友達と離れ離れになってしまった。
 勿論、雪菜にとても良くしてくれた数多くの親族や近所の大人達も。もう、会う事すら叶わない。寂しかった。悲しかった。辛かった。

 * *

 他県に渡った近森雪菜(ちかもりゆきな)は、夏絵と共に新築のアパートで生活していた。
 だが、数ヶ月が経過した現在も雪菜の心は晴れないままだった。名残惜しさで、胸がいっぱいだった。
 夏絵と同じくらい大好きだった春彦の裏切りに言葉では言い表せないショックを受けた雪菜は、次第に他者に対し心を閉ざす様にさえなっていた。
 別に学校で孤立している訳でも、苛めの対象になっている訳でもない。友達もいるし、同じアパートの住人達ともそこそこ上手くやっている。けれど、あの頃と比較すれば雪菜の幸福は確実に劣化していた。
 更に、変わったのは雪菜だけではなかった。最初こそ今まで通りの言動で彼女に接していた夏絵も、最近になって徐々にある変化を見せ始めたのだ。
 夏絵が雪菜へ向ける態度や眼差しがどこか素っ気ないものになったと、そんな気がしてならなかった。
 これが自分の被害妄想である事を、雪菜はひたむきに祈った。しかし、現実は無情なものだった。
 夏絵の変化が疑いようのない領域に達するまでに、さしたる時間は掛からなかった。
 夏絵は家事の殆どを雪菜に押し付け、雪菜の意見には耳も貸さず聞き流すのが常となっていた。
 理由は、皆目見当も付かない。いつの間にかこうなっていた、としか表現のしようがなかった。
 雪菜が通っている、学校に関してもそうだ。夏絵は必要なお金を出すくらいで、他は何もしない。学校の行事にも会にも、徹底的に無視を決め込んだ。
 雪菜は当然、思った。自分は、夏絵の気に障る悪い行いでもしてしまったのだろうかと。
 故に雪菜は、意を決して夏絵に声を投げた。
「お母さん」
「……」
 案の定、返事はない。けれど、ここで引き下がる選択肢はない。雪菜は再び、勇気を振り絞った。
「お母さ――」
「煩い!」
 返って来た声は、耳を劈く罵声だった。
 びくんと雪菜の身が震え上がり、鼓動がはね上がった。彼女は瞳を見開き、夏絵を呆然と凝視した。
 ソファーに座ってテレビを眺めていた夏絵の視線の先が、雪菜へと移り変わる。その顔は、背筋が凍るほどのおぞましい悪意に彩られていた。
「どう、して……?」
 当たり前の疑問を、雪菜が無意識に漏らした。すると、夏絵は如何にも可笑しそうに笑った。
「どうして、ですって?」
 笑っているのは口元だけで、夏絵の双眸は微塵も笑っていない。雪菜は、余りの恐怖におののいた。
「あの汚らわしい男の、娘の癖に!」
 絶句する、雪菜。彼女は覚束ない思考の中で、ようやく夏絵の言葉と行動の理解に至った。
 至極、簡単な話だった。
 春彦の裏切りにショックを受けたのは、雪菜1人ではない。夏絵も同じかそれ以上に深い心の傷を負い、春彦と――春彦の血を受け継いだ雪菜への憎しみを、密かに積もらせ続けていたのだ。
 自分を裏切った春彦の血が流れている雪菜を憎みながらも、理性を持って抑え続けていた夏絵。が、積もりに積もった憎しみがとうとう理性を破壊した。これこそが、現在の近森夏絵という人間なのだ。
 この日を境に、夏絵の雪菜に対する仕打ちは激化した。冷え切った振る舞いに、暴力が加わった。

 * *

 雪菜は今日も自室に閉じ籠もり、泣いていた。
 雪菜の身体は痣だらけで、目も当てられないものと成り果てていた。痛い。苦しい。嫌だ。
 また、夏絵による仕打ちは身体的な暴力に留まらなかった。身体的な暴力と同時に精神的な暴力も頻繁に実行され、雪菜の精神を酷く蝕んだ。
 あんたは、汚い人間。あんたは、価値のない人間。あんたは、生きていても無駄な人間。夏絵の口内から放出された暴言の数は、計り知れない。
 ほんの数日前、おびただしい暴力の嵐に堪え兼ねた雪菜は初めて自殺を試みた。キッチンにある包丁を使って、自らの頸動脈を切断するやり方で。
 でも、失敗した。失敗させられた。頸動脈を切断する直前に、夏絵が雪菜の腕を鷲掴んだのだ。
 当初は、戸惑った。何故、止めるのかと。夏絵は、雪菜を憎んでいるのではなかったのかと。
 雪菜のこんな戸惑いを払拭したのは、優越感に満ちた嘲笑を湛えた夏絵の次の発言だった。
『あんたが死んだら、誰に復讐すれば良いのよ?』
 ああ、成程。雪菜は、納得した。
 夏絵は春彦の血が流れる雪菜を、春彦に見立てて攻撃していたのだ。ずっと、ずっと。
 夏絵には、雪菜が必要だったのだ。

 * *

 けれども、遂にその日は訪れた。
 キッチンで再度の自殺を試みた雪菜に逆上した夏絵が、雪菜に暴力の限りを尽くしたのだ。
 かつてない、凄まじい苦痛が雪菜を襲った。泣いて許しを乞うも、全てが無意味に終わった。
 もう、無理だ。沢山だ。死なせてくれ。そんな雪菜の願望は、意外な形で成就される事となった。
 夏絵の拳が、雪菜の頬を容赦なく殴り付けた。瞬間、バランスを崩した雪菜の身が後方へ傾いて。

 ごりっ!

 恐ろしく強硬な音を伴い、雪菜の後頭部が食器棚の角にめり込んだ。灼熱の炎の様な熱を帯びた後頭部から多量の生温い液体が伝う感覚を辛うじて認識した彼女の視界と意識は、たちまち暗転した。
 視界と意識が暗転する間際、雪菜は夏絵の顔を見た。一瞬だけ、互いの目が合った。
 夏絵の表情は、凍っていた。双眸は大きく開かれ、口は半開き。それらが、全てを物語っていた。
 大方、ここまでするつもりはなかったとでも焦っているのだろう。しかし、時既に遅しだ。
 雪菜は最期の最期で、幸福を取り戻した。

 * *

 中学生の娘を虐待死させたとして母親が逮捕された事件は、一時期お茶の間を騒がせた。
 皆が中学生を哀れみ、皆が母親を非難した。
 とはいえ――この事件の直後に凶悪な殺人事件が発生し、皆の関心は早々にそちらへ移ってしまった。
 事件が風化するのは、最早時間の問題だろう。


‐終‐

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