上条聖(かみじょうひじり)の暗く濁り切った瞳が映し出すこの世界は、奈落そのものだった。
 如何なる抗いも受け入れられない、厳重に閉ざされた真っ黒な牢獄の中。脱出の手段など、ありはしない。牢を開く為の鍵は、既に見失って久しい。
 聖は今日も学生服を着たまま自室に閉じ籠り、ベッドを背もたれに身体を丸めていた。
 自らの小柄な身体を抱き締める様にして絨毯の上へと座り込み、立てた両膝に深く顔を埋める。近頃は下校して帰宅するなり、いつもこうだ。

「……」

 傍らに放置していた通学鞄に、聖はふと双眸を向ける。そして、鷲掴んだそれを緩慢な動作で取り上げると――小学校時代から使っている傷だらけの学習机目掛けて、力の限りに思い切り投げ付けた。
 宙を舞った通学鞄は間もなく激しい音を立てて学習机に衝突し、絨毯の上に落下して止まった。

「……っ」

 目頭が凄まじい熱を帯び、全身が狂おしい震えを帯びる。聖の心は、限界を寸前に控えていた。


 * *


 苛め。
 別段、珍しい話ではない。これは人間界のどこにでも存在すると言って差し支えない、特定の弱者を標的とした醜悪な言動の総称である。
 ――聖は、この特定の弱者に該当した。
 リーダー格の中谷彰(なかたにあきら)と、下田透(しもだとおる)。彼らを筆頭に、クラスメイト達は先述の醜悪な言動を殆ど毎日の様に聖に加え続けてきた。無論、今日も例外ではなかった。
 聖は今日、学校で過ごした時間を思い起こす。
 今日は売店に行った隙を突かれ、教科書の類を纏めてゴミ箱に捨てられた。ゴミ箱を前にショックで硬直する聖を、クラスメイト達は嘲笑った。
 何も言えないまま、皆の視線を一身に浴びながら捨てられた教科書類をゴミ箱から引っ張り出していた聖の背中に、ゴミを投げ付ける者がいた。彰と透だ。
 昼食のパンの袋や、空の牛乳パック。丸めたプリント。物が物なので肉体的な痛みはなかったものの、聖は涙を堪える事に力を尽くすのが精一杯だった。


 * *


 聖の両親は、俗にいう『毒親』だった。
 口を開けば勉強、勉強。こちらが少し休憩や趣味を挟めば、ここぞとばかりに皮肉を飛ばす。
 自分達は汗水を流して働いているのに、お前は楽で良いな。誰のお陰で、飯が食えていると思っているんだ。育ててやっている親に向かって、その態度はなんだ。――全てが、両親の口癖だった。
 聖は過去に1度だけ、藁にも縋る想いで学校での苛めを両親に相談した。が、心底後悔した。
 苛められるお前も悪いし、こんな些細な事で悩んでいたら社会に出てやっていけない。そう告げるや否や、両親は一方的に聖の話を打ち切ったのだ。


 * *


 今日は、上履きを隠された。
 上履きは聖が時間を掛けて探し回った末に、男子トイレの個室で水浸しになっているのが見付かった。


 * *


 今日は、彰と透に体操服と体育館シューズを目の前で窓の外へと投げ捨てられた。
 取りに行っている間に、体育の授業に遅刻した。


 * *


 今日は、全てのノートに落書きがされていた。
 数え切れない誹謗中傷の羅列により、聖の授業中の努力は呆気なく水の泡と化した。


 * *


 今日は、自転車が傷だらけになっていた。


 * *


 今日は、彰と透に箒で身体を執拗に叩かれた。


 * *


 今日は、机の上に花の挿さった花瓶を置かれた。


 * *


 聖は今日も学生服を着たまま自室に閉じ籠り、ベッドを背もたれに身体を丸めていた。
 自らの小柄な身体を抱き締める様にして絨毯の上へと座り込み、立てた両膝に深く顔を埋める。近頃は下校して帰宅するなり、いつもこうだ。

「……」

 聖は濁り切った瞳を開き、思う。
 もう、嫌だ。大嫌いだ。皆が。何もかもが。
 彰も、透も。一緒になって、苛めを楽しんでいるクラスメイト達も。自分が標的になるのを怖れて、無理をして苛めに加わっているクラスメイト達も。見て見ぬ振りをするばかりの、なんの役にも立たない教師達も。毒親以外の何者でもない、両親も。
 皆、嫌いだ。大嫌いだ。消えてしまえ。死んでしまえ。消えろ。死ね。死ね。死ね死ね死ね死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
 そんな中、声が聞こえた。1階の居間から漏れ聞こえて来る、両親の笑い声だ。大方、流行りの寒いバラエティー番組でも観ているのだろう。

「……」

 ああ、そうか。聖はようやく、完全に悟った。自分の事を気に掛けてくれる人間が、この世界にどこにも存在していないのだという覆しようのない現実に。
 何故、今まで辿り着けなかったのだろう。こんなにも単純で、簡単な結論なのに。やはり自分はまだ、心のどこかに残っていた希望を捨て切れないでいたのか。だとしたら、愚かだ。余りにも。
 けれど、それも最早どうでも良い。関係ない。
 希望は、消滅した。故に、これで終わりだ。


 * *


 擦り硝子の向こうに、2つの人影が見える。聖は無表情に、静かに居間のドアを開け放った。

「……聖?」

 楽しい談笑に水を差されたとでも言いたげに、たちまちしかめっ面になった両親は半ば睨み付けるかの様に聖に冷ややかな視線を寄越してきた。

「お前、勉強はどうした?」
「テスト、近いんでしょう? また前みたいな点数だったら、もう小遣いはあげないからね」

 聞き飽きた小言を口々に発する両親を、聖は無言のまま見据える。そして――後ろ手に隠し持っていた大型の鋸を、ゆっくりと2人の前にかざした。

「なっ……!」
「ひ、聖……あんた……っ」

 なかなか面白い反応だと、聖は若干の興味を示した。あの偉そうな両親が僅か一瞬にして硬直し、戦慄も露わに情けない蒼白顔を晒し始めたのだから。
 命令と金だけを出して、親の義務を全うしていると勘違いしている親もどき。自分達の実の息子が連日味わっている苦痛を理解しようともせず、呑気にテレビを観て笑っている人間もどき。こいつらだけは、絶対に許す訳にはいかない。
 聖は調達した真新しい鋸を手に、緩やかに両親の元へと歩み寄って行った。1歩、また1歩と。

「聖、やめ……」
「死ね」

 聖は生まれて初めて、父親に暴言を吐いた。
 腰を抜かし、恐怖に彩られた表情で無様に身を震わせる父親。常日頃の姿は、見る影もない。
 聖は大きく振り上げた鋸を、ありったけの力を込めて振り下ろし――父親の頭を、叩き割った。

「ぎぇっ」

 双眸を剥き、父親は拍子抜けするほど呆気ない最期を迎えた。頭の中身を露出させながら倒れ伏した彼を目の当たりにした母親が、狂った様な金切り声と共に居間から逃げ出そうと足掻く。
 が、無論そうはさせない。させる訳がなかった。
 足をもつれさせつつも無我夢中で出入口へと駆ける母親に悠々と追い付くや否や、聖は直ぐさま鋸を真横に薙いで彼女の頸動脈を情け容赦なくぶち切った。

「あ……が……!」

 高く激しく、血飛沫が吹き荒れる。

「死ね」

 再度、聖は吐き捨てた。
 父親同様に双眸を剥き、倒れ伏す母親。既に、息はない。残されたのは絶命した2つの肉塊と、狭い居間全体に及ぶおびただしい鮮血だった。

「……」

 鼻を鳴らし、聖はかつての両親だった物を無感動に見下ろす。しかし、彼は己の心が未だ充分に満たされていない現状にややあって気付いた。
 まだだ。足りない。漠然と、思った。
 聖は血塗れの鋸を握り締め、かつての両親だった物の解体作業に黙々と取り掛かった。
 何度も何度も、執拗なまでに全身を斬り刻んだ。2人分の首を切断し、2人分の四肢と指をもいだ。2人分の耳を切り取り、2人分の眼球をくりぬいた。

「……」

 やがて血と脂と肉片がこびり付いた鋸は聖の手を離れ、鈍い音を伴って鮮血の海に沈んだ。
 大量の帰り血を浴びた聖は、考えた。今の自分に、相応しい死に方は何か。自分は、どう死のうかと。
 本当は苛めに関わった全ての人間もどき共も道連れにしてやりたかったが、流石にそれは無理がある。だから、諦めた。諦めて、早々の自害を望んだ。
 これで、この腐り切った世界ともお別れだ。

「……」

 ところが――その時、聖の脳裏にある思考がよぎった。突如として。まるで、悪魔の囁きの様に。
 聖の口元に、久方振りの笑みが咲いた。


 * *


 下田透は、家族が苦手だった。
 嫌いと断言出来る領域には達していないとはいえ、お世辞にも仲が良いとも言えない。折り合いの悪さは、お互いに自覚を済ませている。
 透は今朝も家族と軽い口論を繰り広げた末に、鬱々とした気分で自宅を後にした。
 まだ授業が始まるには随分と早い時間帯ではあるものの、自宅にいるよりは幾らかマシな筈だ。早朝の校舎内で透はこう信じ、真っ直ぐに教室を目指した。
 さっさと教室に入って、最近インストールしたアプリでもやって時間を潰そう。透のそんな計画はしかし、教室を前にした所で台無しになった。
 教室の出入口周辺に、透以上に早く登校していたらしい若干数のクラスメイト達が真っ青な顔をして立ち尽くしていた。余りにも、異質な光景だった。
 透は当然の戸惑いを覚えながら、さして仲良くもない1人のクラスメイトに話し掛けた。

「おい、どうした?」
「!」

 皆が瞳を見開き、一斉に透を振り向いた。

「し、下田……」
「? なんだよ」

 首を捻る透に、別のクラスメイトが言った。

「上条が……教室で……っ」
「……上条?」

 上条聖。透が幼馴染みの中谷彰に命じられて苛めている、クラスメイトの名前である。
 非常に暴力的で、逆らえば何をしてくるか分かったものではない。こんな恐ろしい性格をした彰のご機嫌取りの為に、透は聖を苛めていた。罪悪感をひた隠し、如何にも楽しげな演技までして。
 透はクラスメイト達の元まで歩み寄り、彼らが揃って指し示す教室の内部を覗き込んだ。
 教室は、真っ赤に染まっていた。

「え?」

 間の抜けた声が、透の口から漏れた。

 
 中谷彰 下田透


  黒板に、真っ赤なペンキで殴り書きされた文字があった。黒板を埋め尽くすほどの大きさではっきりと記されたそれに、透は凍り付いた。
 更に、被害はこれだけに留まらない。真っ赤な殴り書きは、室内の壁という壁に及んでいた。
 そして、透はやや遅れを取って気付いた。この殴り書きの全てが、人名で構築されている事に。
 身震いした。瞬く間に、血の気が失せた。
 教室全体をおぞましく覆っているのは、クラスメイト全員の名前と担任の教師の名前に違いなかった。
 殴り書きに使用された塗料缶と刷毛が、窓際の床上に転がっているのが見えた。その、傍らには――。

「……ひっ!」

 透は思わず息を呑み、後ずさった。
 天井から括り付けられた荒縄で首を吊って死んでいる聖の姿が、そこにはあった。
 真っ赤なペンキに塗れた、小柄な身体をゆらゆらと揺らす聖。僅かに開かれた彼の両の目には、真新しい無色透明の雫の名残が窺えた。


‐終‐

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