3月15日。今年もまた、この日がやって来た。
「陽平、誕生日おめでとう」
後藤月子(ごとうつきこ)は心底からの幸せを具現化した様な微笑を湛え、恋人の誕生日をそう祝った。
前原陽平(まえばらようへい)という恋人は、いつも月子に柔らかい微笑みを返してくれる。月子は、それが嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
「ねえ、陽平。私、もう直ぐ就職するの」
月子は、静かに語り掛けた。
「私ね、馬鹿なりに頑張ったんだよ。簿記とか、パソコンとか、ビジネスマナーとか」
陽平は、元来の酷く柔和かつ優しげな笑顔で月子の話に耳を傾けてくれている。
「凄ーく、頑張ったよ。偉いでしょ?」
くすくすと、月子は笑った。
「あれ? もう帰っちゃうの? 残念」
月子は肩を落とすも、引き止めなかった。引き止めればきっと、陽平に要らぬ負担を掛けてしまう。
陽平は月子に手を振り、立ち去って行った。彼の後ろ姿が消えるまで、月子は見送りをした。
「……勉強、怠いけどまだまだ頑張らないとね」
少しでも、陽平に喜んで貰いたいから。誉めて貰いたいから。月子は、その一心だった。だから、どんなに辛くても頑張る事が出来た。
勉強用の机と向かい合い、月子は積み重ねた付箋だらけの参考書に片っ端から目を通し始めた。
* *
翌日も、陽平は月子の元へと来てくれた。
相変わらずの笑顔に、月子の胸は躍った。沢山笑って、沢山話をした。長く、時間を共にした。
ただ、この日は日頃とは少し違っていて――。
「でね、明日は友達とね……」
月子の台詞が、途切れる。
つい今し方までここにいた陽平が、月子の言葉を最後まで聞くより先に帰ってしまったのだ。
たちまち、無表情になる月子。無言で立ち上がった彼女は卓上に無造作に置いてあったプライベート用の赤いバッグを引き寄せると、黙々と中を探った。
「あった」
月子の顔に、表情が戻る。
「ちょっと、量が足りなかったかな。失敗失敗」
月子は取り出した『それ』を、うっとりと眺める。そして楽しそうに、悪戯っぽく呟いた。
「今度は、どれを使おうかな?」
* *
澄み渡った紺碧の大空の下で、真っ昼間の交差点を進む月子はとても上機嫌だった。
今日は、新しい物を仕入れて来た。使うのが、待ち遠しくて仕方ない。早く、帰宅したい。帰宅して、いつもの様に陽平と語り合いたい。早く――。
「う……っ」
きびきびと動いていた月子の足が、唐突に停止する。否、停止せざるを得なかった。
月子の後方を歩いていた通行人達が、目に見えて鬱陶しそうに顔をしかめながら月子を避けて行く。だが、現状の月子にそんな赤の他人の事を気にする余裕などある訳がなかった。
猛烈な吐き気と、眩暈。朦朧とする、意識。
「だ、駄目……!」
頭を振り、脆弱な我が身を内心で叱責する。月子は、走った。逃げる様に。縋る様に。
月子の記憶に狂いがなければ、この近辺に狭い市民公園があった筈だ。せめて、そこまで。
公園は、程なくして月子の視界に現れた。
表通りからやや離れた場所にひっそりと存在するその公園に駆け込んだ月子は、ざっと視線を巡らせて無人を確認するなり無我夢中でバッグを漁った。
「陽平……助けて……来て……」
新しく仕入れた『それ』を愛用の小さなパイプに捩じ込み、ライターで火を灯す。白煙が上がった。
「……」
長く、大きく安堵の溜息を吐き出す月子。彼女の前には、陽平が立っていた。
優しい陽平。大好きな陽平。月子の目尻に、うっすらと透明の雫が滲み出る。
「来て、くれたんだね……。有難う、陽平……。いきなりこんな所に呼び出して、ごめんね……」
でも、嬉しい。自分は、本当に幸せ者だ。心底実感し、月子は改めて陽平の顔を見上げた。
陽平の顔は、ぐちゃぐちゃに潰れていた。
「……え?」
月子はぽかんと口を半開きにして双眸を見開くと、やがて喉の奥底から凄まじい叫びを上げた。
「うああああっ!」
絶叫する月子の脳裏に蘇るのは、あの日の記憶。
死に物狂いで封じ込めていた、あの日の記憶。大型トラックに頭部を轢かれて絶命した陽平を目の当たりにした、あの日の記憶だった。
「ああああっ!」
月子は、叫んだ。絶叫した。
先程と要因の異なる吐き気と眩暈が、情け容赦なく月子を襲った。もう、堪え切る余力はなかった。
倒れ込んで、激しい嘔吐を繰り返す月子。しかし、無慈悲にも彼女には更なる追い討ちが待っていた。
「君! 落ち着いて!」
どこかから、男性の声が聞こえた気がした。
月子は涙と吐瀉物で滅茶苦茶になった顔を辛うじて上方に向け、声の主と思わしき者を視界に納めた。
いたのは、トラックの運転手だった。
月子の傍らに屈んで、大声で幾度となく話し掛けてくる男性。彼はあの日、陽平を轢き殺した大型トラックの運転手に間違いなかった。
「ああああっ!」
月子の絶叫と嘔吐に、拍車が掛かった。
「いやああああっ! 来るな! 来るな!」
無我夢中で泣き叫び暴れる月子の心とは裏腹に、こちらに近付いてくる悪魔の足音があった。
トラックの運転手が1人、また1人と月子の元へと集って来る。最早、逃げ場などなかった。
「落ち着いて!」
「僕らは、警察だから! 大丈夫だから!」
運転手達の言葉は、壊れた月子の心には届かない。彼女の心は、恐怖と憎悪に埋め尽くされていた。
「この子、幻覚を見て――」
「危険ドラッグの可能性が――」
「早く、救急車を――」
運転手達の忙しない遣り取りも、全く頭に入らない。月子は、ひたすらに泣き叫んだ。
けれども、月子の絶叫に終止符が打たれるまでにさしたる時間は掛からなかった。
ぷつんと糸が切れた様に、月子は沈黙した。
なんの音もない。なんの感覚もない。そんな冷たい世界に、月子はたった1人でいた。
ああ、死ぬんだ。月子は、自分の運命を悟った。
陽平。恋人の名を、密かに呟いた。
『月子』
思い出す。陽平の温かい声を。
そうか。最初から、こうなっていれば良かったのだ。月子は、ようやく理解した。
陽平が死んでから今まで、どうして気付かなかったのだろう。自分の今までの苦しみは、一体なんだったのだろう。こんなにも、簡単な方法があるのに。
「陽平。私もこれから、そっちに行くからね……」
月子は最後に言い残し、緩やかに瞳を閉ざした。
‐終‐