君よ シリーズ
遥か君よ
雲がかった空が永久に続いている。鬱蒼とした森が遥か地平線まで広がっている。目の前には神社の社のような小さな建物がある。この夢の中の風景はいつも変わることなく、何年も見続けているこの夢は、自分にとって現実と錯覚するほどに日常と化していた。
リィン リィン
不思議なすんだ鈴音。社の扉がゆっくりと開いていく。
立烏帽子と水干をまとい腰に太刀を帯びた女。そして隅に置かれている直垂。こちらを向いている彼女は一礼をし、静に舞い始める。
一歩、右へ 一歩、左へ。
彼女と自分しか存在しない世界。圧倒的過ぎる彼女の気配に、背景がかすむ。
――カナシヤ…カナシヤ…
声がする。それとともに彼女が一筋の涙を流す。「カナシヤ」と。その言葉は「愛し」なのか「悲し」なのか、それとも「哀し」なのか。
その声とともに社の扉は閉まる。いつもは、そうだった。しかし今日は違った。彼女が社から出てきて、自分の前に立った。
――お会いしとうございました。 様。
今、彼女は自分をなんと呼んだのであろうか。自分の目の前に立つ彼女はこんなにも華奢な体をしていただろうか。
―― 様、いかがかなされましたか?
不安そうに此方を見上げる彼女。何か、何か言わなければ、という衝動が自分に音を発させた。
「い…いや、なんでもない。」
――そうにござりましたか。なればよろしいのですが。
ふんわりと笑む。僕を抱き寄せるようにして彼女は言った。
――静は今一度、源九郎様にお会いできて幸せにござりまする。
シャラン、とさっきとは違う鈴音がした。強く吹きぬける風に強く目をつぶった。
――しづやしづ しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな
彼女がそう言った気がした。そこで自分の意識途絶えた。
それから彼女の夢を見る事は無くなった。彼女の最期の言葉が気になって調べてみれば、その句は、静御前が源義経を想って歌った歌だそうだ。
“日本古来の織物を織るための麻を細く裂いてより合わせて作った糸を巻き取っていくように、もう一度仲睦まじいかった昔に戻れればよいのに”
大まかにはこのような意味だったと思う。彼女の“源九郎”は義経の事を指すようだから、自分は彼の代わりで、彼女は静御前なのだろう。奇しくも自分は義経が亡くなった衣川館の地の出身なのだから。
「愛し」かったのだろう、義経が。「哀し」かったのだろう、二度と会えない事が。
――君が行く 道のながてを 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも
そう、彼女に伝えたかった。
未だ見ぬ君よ
自分は待っていた。この深い森の仲で、彼が来たことを知らせる、鈴の音が鳴るのを。
自分は、待っていた。あの人に会える日を、ずっと、あの人に会える日を、ずっと、この夢の中で。広がる鈴の音は、自分の舞の始まりの合図。
リィン リィン
きた。扉が開けば、目の前に青年。色白く、小柄な青年が立っている。彼を見た瞬間、血が騒いだ。
一礼。その後は、意識せずに体が動く。彼の人が最も好きな舞。
知らないうちに自分の顔に笑みが浮かんだ。舞が終われば喜んでくれるだろうか。早くその笑顔が見たい。彼の側へ立ちたい。
――愛しや…哀しや…
あぁ、彼がとてつもなく愛しい。その傍にいれないことが哀しい。思わず、社から出てしまう。
あぁ、…愛しい御方、私の…私の…。
「お会いしとうございました。源九郎様。」
声をかけども、源九郎様から、返事がない。何かあったのだろうか。
「源九郎様、いかがかされましたか?」
そう問いかければ、慌てたように声がかえってきた。
――い…いや、なんでもない。
苦笑しているお顔。何か私は困らせるようなことでもしてしまったのだろうか。
今は、いい。彼に会えたのだから。
「そうにござりましたか。なればよろしいのですが。」
久しぶりに会ったら、傍にいたくなる。傍にいれば、話したくなる。話していれば、触れたくなる。触れていれば、離したくなくなる。けれども、そうは簡単にいかないのが世の理で。私はもう、この場所から去らねばならないのだから。
「静は今一度、源九郎様にお会いできて幸せにござりまする。」
私は彼を抱きしめて言った。彼から離れるときに、服につけていた鈴がシャラン、と鳴った。森から吹いてくる風が早く、と私をせかした。
――しづやしづ しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな
私はそういい残してその場を去った。
天へ昇る途中、彼の声が聞こえた。
――君が行く 道のながてを 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも
今でも、九百年も前の私のことを思っていてくれることがうれしくて、涙が止まらなかった。
愛し君よ
彼と彼女の巡り合いから、また幾月が過ぎて、彼は三年目の大学生の春を迎えた。
専攻は日本史。特に平安や鎌倉。静御前や義経の時代だ。彼は大学の日本史のゼミの教室へと向かう道を歩いていた。
教授一人にゼミ生が七人。教室に入ったときには、男が二人、女が四人。一番最後に入ってきたのが、彼だったようだ。ふ、と一人の女子と目があう。
「「あ」」
互いに互いの顔を見た瞬間、思わず声を上げる二人。教授に「何だ、お前ら知り合いか。」などといわれつつ、自己紹介をした。
「湊 佳也です。」
「志津兼 舞です。」
ミナト ヨシヤとシヅカネ マイ。二人は、互いの名前を確認して、確かに夢であったことがあると想った。
「この後、いいかな?」
佳也のその一言で、二人は大学に程近い喫茶店へとやって来た。
「「あのっ、……」」
再び重なる二人の声。しばらく、「先にどうぞ」と互いに繰り返していると何だか馬鹿らしく、二人は笑った。
「ねぇ、君って、静御前≠セよね?」
「湊君こそ、源九郎様≠ネの?」
「いやだなー。義経って方が格好いいと思うんだけど。」
「確かに、そうだね。あ、私、マイでいいよ。志津兼って言いづらいでしょ?」
「じゃあ、俺も佳也でいいよ。」
そういって二人は微笑みあった。
「最近、あの夢、ぱったり見なくなったの。」
「舞も?俺も見てないな…水干姿。」
「えーあの太刀重いんだよ?でも佳也の直衣姿もみたいなー。」
「もしかして静御前と義経が俺らを引き合わせたのかもしれないな…。」
来世には 併に生きむと 祖に願ふ
恋し君よ
平安時代などには、辞世の句を読んだ、と言われているが、次の世―来世には忘れられてしまうし、なかなか、後世には残りはしないのだ。
人生五十年とはよく言ったもので、私などもそのうち死にいたるのだろう。現にあの人は31年ほどしか生きなかったのだから。
生まれた子は、男児だった故、海へと沈んだ。私は一人、この家で暮らしている。あの時、「連れていけぬ」と言われようと、付いていったのであれば。私と彼は何か変わっていただろうか。
文箱の中に一枚だけ収められた手紙。大事に広げたそれには、一言だけ書かれている。
「来世には 併に生きむと 祖に願ふ」
唯一遺されたモノ。私もすぐに、と願う心。この山で、鞍馬の山で、果てるのであれば。
自害できないのは、監視されているから。
出かけないのは、あなたがどこにもいないから。
あの庭の木の葉が全て落ちたなら、きっと私も死ねるだろう。ほら、いまにも落ちそうなのだから。
あぁ、遥か君よ、
あぁ、まだ見ぬ君よ。
今、どちらにおられますか?私はここにおります。
すぐ、そちらに行きます故。お待ちください。
「来世には 併に生きむと 祖に願ふ 愛し君よ 恋し君よ」
歌解説
「しづやしづ しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな」
有名な静御前の歌。本歌は伊勢物語の「いにしへの しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな」よりとられていると思われる。現代語にすれば(日本古来の織物を織るための麻を細く裂いてより合わせて作った糸を巻き取っていくように、もう一度仲睦まじいかった昔に戻れればよいのに)といった模様。
「君が行く 道のながてを 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」
万葉集より引用。現代語訳は(あなたが行くその道を折り畳んで重ねて焼いてしまえる天の火がほしいなぁ)。
「来世には 併に生きむと 祖に願ふ 愛し君よ 恋し君よ」
作者筆。冒頭は、「くるせには」と読んでいただければ。意味合いは(愛しい人よ、君を恋しく思う。次に生まれ変わったのならば、来世こそは夫婦になりたい)となる。
訳は意訳、しかも結構無茶な読解。