風谷香歩(かざたにかほ)は、自他ともに認めるオカルトマニアだった。
いつからオカルトの世界に惹かれ、いつからオカルトの世界に足を突っ込んだのかはもう香歩自身も覚えていない。ただ1つ言えるのは、小学校低学年の時には既にどっぷりと沼に嵌まっていたという事だ。
小学生の頃の香歩は、当時の仲良しグループの面々にオカルトの知識やそれに関する自分なりの解釈を熱弁するのを日課としていた。なんの疑問も抱かず、息をする様にオカルトの話題提供に精を出した。
幽霊。憑き物。座敷童。神隠し。七不思議。都市伝説。童話。童謡。こっくりさん。おまじない。呪い。祟り。イタコ。神降ろし。人柱。香歩に語らせたら、一向に終わりが見えないほどだった。
日本のオカルトが、堪らなく好きだった。オカルトに熱中している時間こそが、香歩にとって最大の快楽だった。
そんな香歩が、最も無心になっていたのは『かごめかごめ』や『通りゃんせ』を始めとする、童謡の解釈だった。
「『かごめかごめ』の歌詞については諸説あって、1番有名なのが流産説なんだけどさ。これじゃ、詰まんないと思うんだ」
ある日、香歩は得意げに切り出した。
諸説や流産という小学生には難解な単語に仲良しグループの皆は首を捻っていたが、香歩は構わず饒舌に喋り始めた。
「籠の中の鳥っていうのは、牢獄の囚人って説があたしのお気に入りかな」
仲良しグループの皆は、難しいながらも香歩の話に真剣に耳を傾けてくれた。心の底から、興味を示してくれた。
その中でも香歩が提供する話題により高い頻度で食い付いてくれたのが、水島美希(みずしまみき)だった。
「ねえねえ、香歩ちゃん」
「ん? どうしたの、美希ちゃん?」
「『夜明けの晩』とか『後ろの正面』って、どういう意味なのかな?」
純粋な疑問を口にする、美希。
美希は勉強もスポーツも易々とこなし、更に類い希なる社交性まで兼ね備えた美少女だ。常に男女問わず、沢山の友達に囲まれている様なクラスの人気者だった。
クラスの人気者である美希とオカルトを通してこうして仲良くお喋りが出来るのも、香歩の自慢と言えた。
「普通に考えたら、確かにどっちも意味不明だよね。『夜明けの晩』は、午前4時くらいなんじゃないかって良く聞くけど」
「なんで?」
美希が尋ね、香歩が答える。
「夜明けとも晩とも言える時刻だから、だって。まあ、言われてみればって感じ」
「ああ、成程ねー」
他の女の子達が必死に理解しようと唸っている間も、美希は直ぐに得心してくれるので話が早い。有難い限りだ。
「じゃあ『後ろの正面』は?」
「さっきの囚人説を前提にするなら、囚人の死刑執行----斬首だね。あ、斬首っていうのは首を切られるって事ね」
香歩がさらりと口にした言葉に、他の女の子達の顔がたちまち青ざめた。
「生首は切断されても、少しの間は意識があるらしいのね。で、首を切られた囚人の目と囚人の背後に立ってる死刑執行人の目が合っちゃう……みたいな。囚人の身体は前を向いてるのに、目は後ろを見てる」
「だから『後ろの正面』なんだね」
「そうそう。あとは神社の階段から姑に突き落とされた妊婦の話だとか、神社にある鏡に写った自分の姿が----」
「凄いね……2人とも……」
話の途中で置いてけぼりを喰らった他の女の子達が、一斉に項垂れた。
* *
しかし、どれもこれも所詮は昔話だ。
高校生になった香歩は、小学生の頃には想像もしていなかった密かな悩み事をたった1人で胸の内に抱え込んでいた。
香歩のオカルト好きは、現在も全くと言って良いほど変わっていない。変わったのは香歩ではなく、周りの方だった。
進路。恋愛。お洒落。時が流れるに連れて、女の子達の興味は必然的にそちらへと向かってしまい----結果として、香歩のオカルト話に付き合ってくれる女の子は軒並みいなくなってしまったのだ。
あの美希も、例外ではなかった。
美希とは中学が別々だった関係で一時疎遠になってはいたが、高校で再会を果たした事によりまた仲良しに戻った。多少のメンバーの入れ替わりはあったものの、仲良しグループも再結成された。
けれど、香歩の心情は複雑だった。
香歩のオカルト話にまともに取り合ってくれる者がいなくなってしまったという現実も、確かに原因の一端を担ってはいる。ただ、原因はそれだけではなかった。
小学生の頃はろくに気にも留めていなかった『成績』は、進路の問題が近付いて来た今となっては最早軽視不可能な重要事項と化していた。ここで香歩は、とうとう思い知らされる事となった。
美希は、本当に優秀な生徒だった。
どんな勉強をやらせても、どんなスポーツをやらせても息を呑むほどの素晴らしい成果を叩き出す。学年順位は常にトップクラスで、文句の付け所がなかった。高い社交性も、美しい外見も健在だ。
なのに、自分はどうだ。香歩は思う。
香歩も学年順位は上位から数えた方が圧倒的に早い程度には好成績で、社交能力も顔も別に悪くはない。でも、これで満足など到底出来る筈もなかった。
学力も運動神経も社交能力も顔も、全てが美希より劣っている自分。周りの変化を火種にこの事実をまざまざと突き付けられた香歩は深く傷付き、苦しんでいた。
皆が皆、美希を持ち上げた。天才で理想の美少女として慕い、崇拝した。仲良しグループのリーダー格も、いつしか香歩から美希へと移り変わっていた。
分かっている。当たり前だ。既に無価値となったオカルトしか取り柄のない香歩よりも、なんでもこなせる美希の方が評価されるに決まっている。
オカルトに詳しい。だからなんだ。それがどうした。なんの意味がある。
オカルトなんて非科学的なもの、学校や社会では何1つ役に立たないではないか。あってない様なものではないか。
気付くのが、余りにも遅過ぎた。
香歩は、己の愚かさを呪った。オカルトに現を抜かし、他の事柄を疎かにしていた自分を吐き気がするほど嫌悪した。
しかしながら、後の祭だ。
もう、どうにもならない。もう、取り返しが付かない事を香歩は理解していた。今更どんなに自分を磨いた所で、美希には追い付けない事を香歩は知っていた。
嫉妬。嫉妬。嫉妬。香歩の心は、美希に対する嫉妬で雁字搦めになっていた。
美希と友達でいたいという純粋な想いと、美希が憎らしいという歪んだ想い。2つの想いが、香歩を板挟みにしていた。
辛かった。大切な筈の友達を妬み続けるのは、まるで地獄の様だった。
そして----香歩は美希の件以外にも、まだ悩み事を抱えていた。恋愛だ。
実は香歩は高校に入って以来、1人の男子生徒に好意を寄せ続けていた。
同じクラスの、火村久志(ひむらひさし)。彼は美希に匹敵するほどの成績と社交性を併せ持ち、顔立ちも良い。彼も美希と同様に、クラスの人気者だった。
けれども、告白するどころか声を掛ける勇気すら香歩は持っていなかった。
理由は、美希の存在だ。
美希の天才的な能力を前にすっかり自信を喪失して卑屈になってしまっていた香歩は、自分みたいな無能が久志と釣り合うのか。趣味がオカルトと知られたら、彼に引かれてしまうのではないか。こんな恐れが、常に頭をよぎる様になっていたのだ。
美希に嫉妬したまま、久志への告白も叶わないまま冬休みが始まった。
* *
香歩の心の苦痛に終止符が打たれたのは、年が明けた初詣の日の事だった。
この日は香歩と美希を含む仲良しグループで、近所の有名な神社に赴いた。
参拝。おみくじ。お守りの購入。一通りの用事を済ませた後は、香歩の想定通り歩きながらの女子トークが始まった。
香歩は最後尾で皆の話を聞く傍らで、話に付いて行くべく懸命に思考を巡らせ、口を動かした。いつもの様に。
だが、グループの1人が何気ない様子で発した一言で事態は容易く急変した。
「ところで、美希。恋愛用のお守り、ちゃんと買って来たの?」
「あ、うん。買った買った」
本人達にとっては、特に深い意味を伴った言葉ではなかったのだろう。これは、彼女らの声色で知れた。なのに----。
香歩はその会話に、小さな引っ掛かりを覚えた。そして、覚えた引っ掛かりを解消しようと美希に尋ねたのだ。
「美希ちゃん、恋でもしたの?」
一瞬の、沈黙。それは思いもよらないもので、香歩は困惑を余儀なくされた。
美希が、皆が、香歩を振り返る。どこか不思議そうな、不可解な視線を湛えて。
「……ああ、そっか。香歩ちゃん、あの日は風邪で来られなかったんだったね」
美希が言うと、他の皆も直ぐに納得した様に表情を綻ばせた。
確かに香歩は、前回の遊びの誘いを風邪を理由に仕方なく断っていた。
「あのね、香歩。実は……」
別の1人が、香歩に説明を施す。
「実は美希、ずっと好きだった男子から告白されたんだって」
「え? そうなの?」
驚きはあったものの、さして強いものではなかった。なんせ、告白されたのはクラスの人気者の美希なのだ。好意を抱く男子が現れても、可笑しい事は何もない。
だから香歩は、笑みを作って素直に美希を祝福しようと決めた。
「良かったね、美希ちゃん」
「有難う、香歩ちゃん」
美希も、照れ臭そうに微笑む。
「で、誰に告白されたの?」
香歩は軽い気持ちで、聞いた。
美希はやや頬を赤らめつつ、答えた。
「久志君」
小説などで見掛ける音が消えるとは、こういった感覚を指すのだろうか。
香歩の思考は目の前の現実の受け入れを断固拒否するかの様に、あらゆる機能を停止させていた。重苦しく、どす黒いものが彼女の胸を瞬く間に覆い尽くしていた。
暗闇。無音。漆黒で音のない世界の中に、香歩は佇んでいた。見えない。聞こえない。こんな、無の世界に。
「香歩ちゃん?」
「香歩?」
「どうしたの?」
美希達の呼び掛けで、ようやく香歩は我に返った。無意識の内に、自分の足が止まっていた現状にも気が付いた。
皆が一様に立ち止まり、一様に瞳を丸くして香歩の方をじっと見詰めている。
「……ごめん。なんでもない」
香歩は、笑った。
「ごめんね。ほら、早く戻ろ?」
「? う、うん……」
腑に落ちない素振りを晒しながらも、香歩に従う美希達。香歩を最後尾に、再び仲良しグループは歩き出す。
程なくして香歩達の足は、来る時に散々文句を言っていた長い階段に差し掛かる。そこで、香歩は動いた。
香歩の直ぐ前方を進む、美希。そんな美希の背中に、香歩はすっと両手を伸ばし----ありったけの力を込めて、押した。
「きゃっ!」
美希の悲鳴。悲鳴と同時に美希の華奢な身体は大きく宙に投げ出され、他の皆や他の参拝者達をも巻き込んで長い長い階段をゆっくりと落ちて行った。
手足を、胴体を階段にぶつけながら転落を続ける美希。目が合った。
驚愕に見開かれた美希の目と、悦楽に見開かれた香歩の目。合った瞬間、香歩は口元に歪な笑みを浮かべて言い放った。
「後ろの正面、だあれ?」
ごつっ!
硬く、怖気が走るほど生々しい音が聞こえた気がした。美希の身体が、階段下の地面でぴったりと止まっていた。
打ち付けた後頭部からは大量の血が溢れ、あちこちにぶつけた手足は通常なら有り得ない方向に曲がっている。見開かれた目はそのままに、美希は絶命していた。
香歩からリーダーの座を奪い、想い人をも奪って行った美希。
美希には、如何なる非も存在しない。悪いのは他でもない自分だと、香歩は重々承知していた。しかし、駄目だった。抑え切れなかった。何もかもが。
「あ……はははは……」
響き渡る、周囲の阿鼻叫喚。最早、知った事ではない。関係ない。
終わった。遂に。やっとで。香歩を苦しめる全てが、これで終わったのだ。
しずしずと涙を流す香歩の心情はとても温かで、穏やかなものだった。
‐終‐