どうしてこれほどまでに彼女のことが気になるのかが、僕自身分かっていなかった。ただ、入学式のときに見た彼女の横顔が、彼女の振る舞いが、僕の興味をクリティカルにつついたという事実は確かだった。僕の肩につかまって歩く彼女の足取りは、しっかり固まっているはずのアスファルトの上で不安定に踊る。

「どこなの? もうすぐなの?」

 僕の質問にはいっさい答えてくれない。「まだ真っ直ぐ」「そこ右」という風に必要最小限のことだけ喋って、それだけ。




 暗い個室にほのかな明かりが一つ、二つ、三つ。緊張と期待がないまぜになった表情がその照明にぼんやりと浮かびあがる。

「みなさん準備はよろしいでしょうか」

 年長者がスッと立ち上がり、片手を高く掲げた。

「それでは僭越ながら。新入生の入学を祝して……乾杯!」


 僕たち新入生はほとんどが未成年だというのに、そんなことはお構いなしに学科内での歓迎会は大学付近の居酒屋で開かれた。噂では、最初の縦コンでそこまで盛り上がりを見せることはないと聞いてはいたが、


「生ビールとカシオレ追加で」

「あ、カシスピーチもお願いね!」

「もっと飲もーよー。はい、グラス貸してね」

「〇〇が飲むぞー!」


 ……所詮噂は噂でしかなかった。まあ、隅で静かに飲んでる人もいないわけではない。一年生よりはむしろ、歓迎している先輩方のペースの方がかなり早い。僕も何回か先輩に酌をしていただきそうになったが、ゆっくりと味わう振りをしてコップを空けなかったのでほとんど飲んでいない。
 彼女はどうだろう……? 視線だけで彼女の姿を探す。座席はくじ引きで決まっていて、左良井さんは一番盛り上がっているテーブルにかしこまって座っていた。


「どこから来たの?」

 一杯注がれる。

「どうしてこの学科にしたの?」

 話しているうちにコップが空いた。

「楽しくなさそうだね……あ、そうでもない? よかったぁ」

 そしてまた注がれている。ペースが早い。ソフトドリンクでもあのペースはない。……大丈夫かな。


 みんなはもう座席とか気にしないで適当な座布団を捕まえて交流している。交流というよりは、言葉が室内を乱舞しているようにしか僕には見えなかったが。
 左良井さんは誰の軽口もそれを上回る軽さでかわすことの出来る人だが、根は生真面目だ。きっと先輩の酌を断れないで何回もグラスを空けて、空けては次の一杯を注がれているのだろう。

(ああ、もう)

 酌なんか断ってこっちにくればいいのに。

 あまりにも心配だったので、僕の方から彼女の様子をうかがいにいった。もう男性陣とか女性陣とかそんな線引きはこの部屋の中に存在してはいない。誰がどこのテーブルにいようがどこのテーブルに移動しようが、みんなの関心は部屋中に散らばって、少なくとも僕にはぶつからない。


「景気よく飲んでるね、左良井さん」

 彼女がゆっくりと振り返る。全体の動作が緩慢だ。

「……ああ、越路くん?」

 照明でよく分からないが、彼女の顔がほのかに赤い。もとが色白だからその赤みは目立つ。

「そんなに飲んでないよ。それに私、弱くなんかないから」

 言いながら、彼女の手にあったコップからサイダーのような酒が僕の足下にびしゃっとこぼれた。

「ほら、十分酔ってるから。酌は断っても無礼じゃないんだよ」

「私が礼にこだわるような人間に見える?」

「今は見えない。でも普段の左良井さんは気にしていると思う」

 アルコールの力で普段の彼女からは見られない軽い微笑みが、僕の言葉で消えた。

「……普段のあたしって、何よ」


 彼女はそれ以上言葉を紡がなかった。僕が床にぶちまけられた透明な液体をお絞りで拭いている間、彼女はそのグラスをクイッと空けた。


 宴会がお開きになると、二次会に行きたい者の招集がかかった。男子はほぼ全員参加、中には女性も多くいた。僕はもともと付き合い程度で終わろうと考えていたし、何よりも左良井さんの足下がおぼつかないのがとても気になっていた。とても二次会に行こうなんていう気にはなれなかった。


「危ないよ、左良井さん」

 僕は彼女に肩を貸すことを提案すると、彼女はその肩をどんと押してそれを拒否した。

「酔ってない。立てるってばぁ」

 そう言ってる傍から膝ががくっと崩れ落ちて彼女は店から出るなり外のアスファルトにうずくまる。

「酔ってるし、立ててもないじゃないか。玄関まで送るから、今日はもう帰ろうよ」




 思い起こせば早いもので、入学式からもう二ヶ月が経とうとしている。この辺は六月になってもまだ長袖でいられる気候だ。しかし人に肩を貸しながら少し距離を歩けばさすがに、その運動とその人の体温とで汗がにじんでくる。


 ようやく部屋の前に着いた。何度も鍵の向きを間違えるような怪しい手つきで彼女が鍵を開ける。扉をくぐると、彼女は靴も脱がずに廊下に倒れこんでしまった。


「ちょっ……せめてベッドで寝てよ、ね?」

 半ば呆れて僕は彼女をたしなめる。

「……気持ち悪い」

「え?」

「吐きそう」

「え」


 僕はそこが女の子の部屋だということも忘れ、トイレを探して扉という扉を開いた。まあ、所詮一人暮らしのアパートな訳で、そこまで広い部屋じゃないからそういくつも扉はなかったけれど、クローゼットの扉を開けてしまったあたり僕も相当慌てていたのか、多少は酔っていたのかもしれない。
 暗い廊下で、手探りで明かりのスイッチを探す。
 彼女を再び肩に担ぐと、うっ、と彼女がうめいた。

「左良井さん、トイレ行くまでは我慢してね!」

 なんで僕はここまでこの人を介抱しているのだろう。トイレに辿り着いてげほげほと咳き込む彼女の背中をさすりながら、酔いと共にそんな疑問が頭の中をぐるぐると巡る。

「水……」

 そう呟いて僕を見つめた彼女の苦しそうな瞳が、図らずも僕を真っ直ぐにとらえた。その視線に、僕の心は不安とは少し違う感覚でざわめき、何か冷たいものが僕の背筋を上から下へ走った。そんな心境を悟られまいと、僕はキッチンを目指して部屋の奥に小走りで向かう。奥に進むと、彼女の香りがいっそう強くなった。女の子の香りだ。
 流しの脇に逆さに置かれたコップを掴み取り、そこに流水を注ぐ。急いで戻ると、彼女は一旦収まった嘔吐感をなだめるかのように呼吸を整えていた。

「……ありがと」

 コップを受け取るときにそう呟いた声の弱々しさ。
 一口飲んで一息入れる。たまに吐き戻したりもしたけれど、ゆっくり時間をかけて彼女はコップ一杯を飲みきった。




 ようやく落ち着いた彼女をベッドまで誘導する。横になったところで辛いことには変わりないのだろうが、一度眠ってしまえばしばらくは安静でいられるだろう。
 彼女は目をつむったまま呼吸をしている。たまにうめき声を上げているから、きっとまだ眠れていないのだろうと分かる。人の寝顔を見るのはいい趣味じゃない、物音を立てないように帰り支度をする。


「黙られると、辛い」

 狭いこの部屋の中でさえ響き渡らない、しかし僕にはかろうじて届いた彼女の声。

「何か、話して。……なんか寂しいから」


 就寝前に物語をねだる少女のようなセリフだ。しかしその弱々しさと気怠さで、イメージとはほど遠い響きになる。
 そういわれると、立ち退くことが罪深い。僕が帰り支度をしていたことに気付かないでそう言ったのかもしれない。仕方ない、とソファの上のクッションを一つ失敬して床に座り込む。さて、何から話そうか。


「……今日はいい反省になったでしょう?」

「うん」

「今度からは自分のペースで飲もうね」

「……うん」

「左良井さんが飲み会に参加したこと自体驚きだったけど、」

「うん」

「酔いつぶれるなんてもっとびっくりだ」

「うん」

「それを僕が介抱することになるとはね。世の中何が起こるか分かんない」

「……うん」


 さっきから「うん」しか言わない彼女。それが返事なのか苦悶のうめき声なのかを聞き分けるのは至難の業だった。


「そんなに楽しかった? 歓迎会」

「わからない」


 彼女は僕の質問に「うん」意外の言葉で答えた。そして彼女の方から聞いてきた。


「越路くんは、この分野好き?」

「人付き合いのこと?」

 枕と頭との摩擦の音をゴソ、とさせて彼女は首を振った。

「ううん、学部とか、学科のこと」

 話が唐突で脈絡がないのは、彼女が酔っているからだと思った。

「好きじゃないと、選べないと思うよ」

 僕は思う通りに答える。大学は、そういうところだと思っているから。

「左良井さんは、好きじゃないの?」

「好きだよ」


 即答だった。なら、なぜそんなことを聞くのだろう。
 聞くより先に、彼女が話しだした。目をつむったままで、それはまるでうわ言のような告白だった。


「好きだよ、だから選んだ。――だけど、行きたかった学部じゃない」

 静かな語り口。僕は、先ほどと似たような心のざわめきを覚えた。

「行きたかった学部はここじゃない、他にあった。でも私はそこに行けなかった。だから好きなことを学べるここを選んだ」

 ふう、と彼女は細くて長い息を吐く。

「この歓迎会が楽しかったどうかなんてだから、わからない」

 彼女は苦しいはずなのに、語ることをやめない。僕が口を挟むいとまもない。

「『行きたかった』っていう思いが本当に自分の中からわき起こっていたものだったかも、もうよくわからない。足りない偏差値を埋めようと頑張って、センター試験で見事に失敗して。それでも筆記試験に臨んだけど、やっぱりだめだった」


 彼女の話は、彼女が泥酔していることを差し引いたとしても、とてもよく整理されていた。

「だから私はここにいるの。失敗してなかったらここにはいないの」

 きっと彼女は、心の中で何度もこのことを反芻していたに違いない。
 そして彼女は繰り返す。


「この歓迎会が、楽しかったか、どうかなんて」

 さっきと同じセリフを、文節を細かく刻みながら。


「だから、わからない」




 単調になった彼女の寝息を聞きながら、僕は考えていた。

 なぜ彼女は僕にこんな話をしたのか。
 なぜ彼女は僕を部屋にあげて、留めたのか。

 論理とか裏付けとかを考慮に入れることのないただの疑問。それを手の平で転がして弄ぶだけだったかもしれない。


 彼女の行きたかった学部ってどこだろう。いくつか候補は挙がるが、きっと難易度の高い学部だったに違いない。学部そのものを変更するくらいの選択――一体どんな気持ちだったのだろう。
 きっと彼女は、芯の強い人間に違いない。そのような選択に踏み込めた人間。そして。


(僕にそんな強さはない)


 真っ直ぐに見つめてきた彼女の視線を思い出す。それに迫力を感じたのは、見つめてきたのが彼女だったからだ。彼女は普段、人と目を合わせることをしない。そういえば先輩達と話していたときも、彼女はややうつむき加減だったり、グラスの中のお酒を見つめていたりしていた。そんな彼女に見つめられたから僕は。


 そこでふと、新たな疑問に突き当たる。

 なぜ僕はそうと言い切れるのだろう。

 僕はなぜ普段の彼女のことを知っている風な口ぶりが出来るのだろう。


 ……無意識に僕は、彼女のことを目で追っていたとでも言うのだろうか?




 一瞬思って、まさかね、と苦笑した。そんなわけあるか、まだ入学して二ヶ月だというのに。
 確かに彼女には、入学式当初から興味を持っていた。まだ寒かったとはいえ、入学式の雰囲気でざわついていた控え室の中で一人、虚空を見つめていた彼女。まだ僕の記憶には十分新鮮だ。彼女が僕に向かって言った言葉。「全部嘘だったらな、なんてこと、あるよね」。それに僕はこう答えた。「例えば……この、入学式とか」。「気の利いたこと言うね」、彼女はそう言って爽やかに笑った。


 しかし今日彼女の話を聞いてもなお、この会話はつながったようでつながった気がしない。
 彼女の容態が落ち着いたら終電にでも乗って帰ろうかと思っていたけれど、介抱して話し相手になっているうちに終電の時刻も過ぎてしまった。何より、帰ろうという気力がもはや僕には残されていなかった。酔いと疲労が、睡魔に変貌して僕を襲う。そのせいか、彼女の話も印象を薄くしていく。ソファを背もたれにして、身体を委ねた。


(どうして僕はここまで彼女のことが気になるのだろう?)


 にわかにやってきたまどろみには、疑問符が尾を引いた。



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