世は未だ階級が残る時代、文乃は男爵家の三女として生を受けた。母が伯爵家の出であったので、文乃は子爵家の跡取りと縁を結ぶことができた。母は自分で自分の結婚を決めた。父との結婚には最初は反対されていたというが、末の子であったことと、父の人望が比較的厚かったことで、結婚を許されたという。
そんな稀有な話を聞かされて信じてきた報いなのだろうか。儀式が終わり正式に子爵家高島の家へ嫁いだその夜、夫となった人は部屋に来なかった。
翌朝、部屋に顔を出したその人は、ただ一言吐き捨てて去っていった。
「お前は黙っていればいい。何も求めてなどいない」
期待などしていない。政略婚のようなものなのだから、愛されようなどとは思わなかったが、初夜であるはずの夜に部屋を共にしないのは、問題があるのではないか。
けれどそんなことを言えるはずもなかった。自分は一応爵位のある家の出とはいえ、高島家に劣る家の出身である。そんな文乃を家に迎えてもらえただけよかったのだろう。
既に養父は隠居生活に入り、養母と共に別荘で静かに暮らしていた。そのため、文乃は一人でいることが多かった。
「奥様、どうかなさいましたか?」
溜息をつく文乃に声をかけたのは、女中の秋枝だ。当初から二人の関係に気がついていた使用人たちは、なにかと文乃を気遣ってくれる。
「今日はいつお帰りになられるのかしら?」
誰が、とは言わなかった。文乃は夫の名を知らない。耳にしたことはあれど、本人から教えられていないものを呼ぶわけにはいかないと、いつも旦那様と呼んでいた。使用人たちから、他人事のようだからお止めくださいと迫られて以来は、主語を抜くようになった。
あれから夫は一度も部屋に入ることはなかった。荷物は別の部屋に置いているようで、そちらで寝泊りをしているらしい。それでも文乃は夫が帰る時間まで起きているようにしていた。それくらいしか出来ることはないからだ。
「今日は何もないはずですから、お早いお帰りの日だと思いますよ。本当に旦那様は不規則なお帰りで困ります。奥様がお待ちですのに……」
「いいのよ。帰ってきてくださっているのだもの」
世間には外に愛人を作り、家には帰らない夫もいる。愛人がいるかどうかは知らないが、帰ってきてくれるだけでもありがたい。自分が来たせいでこの家に良からぬ噂が立てられるようなことがあれば申し訳が立たないのだ。
「しかし……奥様? どうかなさいましたか」
秋枝の声が遠のく。重くなった頭を支えようと柱にすがりつくが、力は入らなかった。身体が熱を帯びているのだと、そこでやっと気がつく。
「奥様! 誰か、お医者様を呼んで! 旦那様にご報告を―――」
意識が朦朧としていく。秋枝の声が聞こえなくなると同時に、文乃は意識を失った。
「そういえば菊之介、お前結婚したんだって? 新婚なのによく遅くまで仕事できるな。怒られないのか?」
高島菊之介―――それが彼の名前だった。いつも仕事中に邪魔をしにくるのは幼馴染の三浦佐平。この男の話はいつもくだらないなと、そう思いながら菊之介は言葉を返す。
「怒るも何も、話すことはないから問題ない」
いつも長く続く会話がそこで途絶えると、諦めて帰ったのかと作業を再開しようとする。だがその手は佐平に止められ、菊之介は顔を上げた。
「何だ、用があるなら言え」
佐平はいつになく感情が昂っているようだった。昔から感情的な男だが、仕事場でそういう姿を見かけることはない。
けれど菊之介には理由が分からず、眉を潜める。そんな様子の菊之輔に痺れを切らしたのか、佐平は叫ぶように声を出した。
「話さないって何だよ! まさかお前、顔もろくにあわせないなんて言わないだろうな? 嫁さんはあの桜庭家のお嬢さんだろう」
それが何だというのだろうか。
高島家は子爵の位で、桜庭家は男爵の位である。高島家の方が爵位は上で、この度の話も親類の反対が何もなかったわけではない。だが、爵位を持つ家柄に代わりはなく、その娘の母親が伯爵家の出だったので、話がまとまったのだ。年頃の娘で子爵以上の爵位のある家柄の娘はもうあまりいないだろう。それを含めてまとまった話だ。
佐平は次男で、家を継ぐ立場でなかったので、医療の道へ進んだ。家を継ぐという重荷を知らないのだ。
「親の決めた話だ、そんなものだろう」
「相手の爵位が下だからか? お前、あの家のお嬢さんなら大切にしてやれよ」
何の話だと、手を振り払ったとき、廊下を駆ける音が聞こえる。
ふとその音の元を辿ると、息を切らした下男が立ちすくんでいる。何か火急の用でもあったのかと声をかけようとしたとき、下男が顔を上げた。
「高島子爵、今使いのものが参りまして、奥様が――――」
所詮は親が決めた話、感情などない。そのはずが、頬を汗が伝う。佐平に促されて部屋を飛び出し、家への帰路を急いだ。
「お医者様はまだなの? 旦那様は? 奥様、大丈夫ですよ。すぐにお医者様が来て下さいますから」
「秋枝……。だめよ、お仕事中なんでしょう。お忙しいのに、これくらいで……」
文乃は熱で意識は朦朧としていた。けれどなぜかはっきりと、秋枝の「旦那様」という言葉が聞こえた。それ以外の言葉は響いて聞き取れないのに、それだけははっきりと伝わってくる。
「旦那様がお帰りです。佐平様がお越しですが」
「秋枝、状態は? 佐平、診てもらえるか」
他の女中が声をかけに来て直ぐに、菊之介と佐平が入ってくる。佐平は黙って頷くと、文乃の状態を確かめていく。しばらくして秋枝と何か話すと、こちらを睨んで部屋を出て行った。こちらへ来い、ということだろう。
「どうした、佐平? 病状は?」
「疲労による発熱だろう。しばらく休んでいれば問題ない。問題なのはお前だ、菊之介」
まるでいつもにまして冷静に答えているようで、けれど違った。それは佐平が本当に怒っているときの状態である。怒っているときほど冷静そうに見えるのが佐平の癖だった。
疲労による発熱。心当たりはない。疲れるほど動いているはずがないのだ。ならば何故発熱にまで至ったのだろう。
「お前、一言も話してないんだって? いくら親の決めた話だからっていてもな、奥さんに挨拶の一つや二つ言えよ。桜庭家は爵位こそ高くないが、礼儀作法なんかに関しては厳しい家だ。きっと幼い頃から言い聞かされてきたんだろう。旦那が帰るまで寝るな、朝は旦那が起きる前に起きろってな。お前の生活に合わせてたら、普通のお嬢さんは一日と保たないさ」
確かに菊之介はあまり良いといえない生活を送っている。自分に振り分けられた仕事が多いわけでもないのに遅くまで他の者と共に残り、朝は早く起きて自分で支度をする。朝が早いのは仕方がないとしても、夜が遅いのに朝も早いという生活をいきなり始めれば身体も壊すだろう。
けれどまさか彼女が、自分を待っていたとは思わなかった。使用人は何も言っていなかった。彼らでさえ夜と朝では起きている者と寝ている者と別れているのに、彼女はずっと待っていたのだ。きっと使用人が伝えていたに違いない。
「良い子だよ。不満も言わずにあそこまで我慢してたんだ。ちょっとは見てやってもいいんじゃねぇか? 普通のお嬢さんなら先に寝てるか、朝起きないだろう」
「―――そう、だな」
菊之介はそれだけ返すと、黙って部屋へ戻っていった。
急に変わった夫の態度に誰よりも驚いたのは、文乃だった。
まず熱が下がり動けるようになると、夫は自分自身に関して話し始めた。
そして自分のことを話し終えると、文乃に尋ねたのだ。お前のことも聞かせてくれ、と。
文乃は夫を―――菊之介を見習って自分について話し始めた。菊之介は真っ直ぐな目で文乃を見つめている。
そして文乃が全て言い終わったとき、こう言った。
「これからも頼む、文乃」
文乃はただ微笑んで頷いた。温かな涙が頬を伝う。そんな文乃を見て菊之介が戸惑うと、今度は文乃が笑った。
二人して笑いあっている主人らを、使用人たちは微笑ましく見守っている。二人の絆がこの先裂かれることがないようにと、心の内で願いながら。