「あったかいね」

隣の席でそう言って笑った彼女の顔を、僕は凝視せずにはいられなかった。

「……は?」
「だから、あったかいねって」
「いやいやいやいや」

何を言うんだこの人は。そう思いながら、首から下げたタオルで鼻の頭に浮かぶ汗を拭う。そして腕時計に目をやった。
講義室のほとんどの席は埋まりつつあって、座った人達は楽しげに談笑している。もう数分すれば教授が来て、あのつまらなくて眠い授業が始まるのだ。
窓際で窓を全開にしているのに、入ってくるのは風ではなく、蝉の声。空気の流れのない中漂う誰かの汗の臭い。じわり、とまた鼻の頭がくすぐったくなる。ああ、またこの季節だ。今年もあせもで夜の寝付きが悪くなるのだろう。
そんな風に思いつつ汗を拭う奴の隣で、彼女はあったかいと言ったのだ。

「……何があったかいって?」

呆れ顔の僕に、彼女はにこにこと返事をしてくれた。

「ここが」
「ここって?」
「この教室が」
「……ごめん、理解には努めたんだ、努めはした。うん。だから許してください」

全く理解できません。
両手を上げて降参のポーズをした僕に、彼女はこてんと首を傾げた。

「人が集まるとあったかいなあって」
「……暑い、じゃなくて?」
「あったかい。なんかね、ストーブとは違う熱なの。ほわっとして、安心するんだ」
「へえ……」
「あ、そう」

ぼん、と両手の平を合わせる。

「温室。温室みたいな」
「温室?」

それはあの、野菜などの旬をずらすためのビニール小屋のことだろうか。

「うん。温室。大切に守ってくれて、その中はぬくもりがあって、寒さを忘れられる、そんな感じ。みんなが集まると、そういうあったかさが集まって、ほわってするの。安心するんだ」
「へえ……」

返事に困った僕に、ふふっと彼女は声をもらした。

「ずっとそばにいたくなる、そんなぬくもり、私、好きなんだ。冬でも、夏でも」

そういって彼女はふにゃりと笑いかけてくる。

「そう――特に、君が隣にいると、もっとほんわり安心できるんだよ。君は温室みたいだね」

ざわめきが絶えない教室の中で、彼女の声はすっと耳に届いた。
教授が教室に入ってくる。途端、教室の中のざわめきは音を変えて、こそこそとしたものになる。彼女もまた、口を閉じ、何事もなかったかのように前を向いた。
僕も前を向いた。それでも、横に目が行ってしまう。
彼女の横顔にはすでに先程までの笑顔はなく、授業へと集中を高めている。対して僕は、彼女から目が離せない。
彼女のあのふにゃりとした笑顔が、忘れがたくて。

「温室……」

訓読みすれば、アタタカイヘヤ。彼女はこの、むさ苦しい教室をアタタカイヘヤと言った。
僕にとって、この教室はアタタカイヘヤではない。でも。
彼女がこちらの視線に気付く。ふわりと微笑んでくれた。すぐに前を向き直ってしまったけれど、その一瞬が嬉しくて。
ほんわりとあたたかいものに包まれる。そう――温室の中にいるかのような。
教授がマイクを持って話し出す。授業が始まるらしい。すぐに静まった教室で、僕もまた、前を向く。
隣にいるアタタカイヒトの存在を感じながら。
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