暗くて見えなかったんだ。
 だって、その時、辺りは夜の闇に覆い尽くされていたから。


 中学一年生の頃の、初夏だったと思う。
「花火大会?」
 李桜りおうが気の抜けた声を出すと、さきはさらに不機嫌そうに言った。
「そうだって何度言えばわかるの?」
「って言われてもなあ」
 ぐったりと自分の席の机に上体をへばりつかせる。その様子に、咲はつまらなそうに唇を尖らせた。
「リオ……そんなに、嫌?」
「嫌っていうか……」
 幼い頃からの呼び名で呼んでくる幼なじみに、返答に窮する。その理由は二つ。
 幼い頃、花火は死者を弔うもので、あの花火を幽霊さんがたくさん見てるんだよ、ほら、李桜の横でもね、と親にちゃかされたから。幽霊なんてまっぴらごめんだ、妖怪も心霊現象も未確認飛行物体もお断りする。
 意味不明なものを嫌に思うのは、オカルト嫌いかそうでないかは関係無く、当たり前のことだと思う。――オカルト好きを除いて。
 案の定オカルト好きな咲にこの理由を言うわけにはいかず、というのも、言ったところで笑顔を輝かせて「行こう!」と李桜を引きずっていくのは目に見えているからだ。
 そして、もう一つの理由は。
「……何で僕に言うの?」
「え? 何でって?」
 きょとんとした顔で首を傾げてくる幼なじみに、ため息をつく。
 二人ともそれなりの年頃だ、気のない相手と二人きりで出かけたくないだろうに。これは期待しても良いのだろうか。それとも、彼女は自分をただの幼なじみとしか見てくれていないのだろうか。
「……いや、何でもない」
 わざわざ、僕で良いのか、なんて訊かない。訊けなかった。
 李桜の答えに何を思ったのか、咲はパッと顔を輝かせた。あれ、おかしいな、と思う。
「じゃあ、行こう! ね!」
 にっこりと微笑まれた。ああ、その顔はいけない。駄目だ。なぜなら、思わず頷いてしまうから。
 理性よりも先にこくりと頭を上下に動かした李桜に、咲は満面の笑顔で歓声を上げた。小さくジャンプを繰り返す。
「やったあっ! 浴衣着ていこうっと!」
 喜ぶ咲のそばで、李桜は大きくため息をついていた。


 というわけで、駅前である。
 着替えるのも面倒で――というより、着替えても咲の浴衣につり合うわけがなくて、李桜は学生服のまま地元の駅の改札前に突っ立っていた。咲の浴衣姿は何度か見ているし、何度か隣を歩いている。地域の夏祭りが主だったが、それにしても祭りの寂れ具合に似合わない、華やかな幼なじみに毎度気後れしていた。
 駅前では、おしゃれした浴衣女性や仲のよさそうなカップルが歩いていた。見渡す限りの、笑顔。ふと自分の制服姿を見下ろす。みんなはなんて楽しそうで、自分はなんて気分が冴えていないことだろう。
 ふと自分を呼ぶ声が聞こえた。
「リオー!」
 我に返り、そちらを見る。白い浴衣に身を包んだ咲が、片手を大きく振って歩いてきていた。近付くとわかる、淡い色の華やかな大判の花。それが浴衣に描かれていた。
 しかしその柄に気付いたのは、だいぶ後の話だ。
 結い上げた髪に花飾りをつけた咲は李桜の隣でぴょこんと立ち止まった。下駄がからりと鳴る。にこりと笑いかけてきた。
「おまたせ」
「……うん」
 顔をそらして頷く。とてもじゃないが、顔を合わせられない。周囲の熱気にやられたのだろう、頬がとてつもなく熱い。
「行こ!」
 咲がくるりと体をひるがえして改札へ向かう。その後に、一呼吸遅れて続いた。


 花火会場に着くまで、何度か来たことを後悔した。
 まず、電車が満員だった。そして、駅を出たは良いがその後も混雑が続いた。まさか会場に行くまで、なだれのような人混みの流れに呑まれていなくてはいけないとは思わなかった。
 会場についてようやく人混みが散らばり始めたころ、李桜は大きく息を吐き出していた。
「……もう帰っても良いくらい疲れた」
「リオ!」
 咲がどこからか走ってくる。人混みの中はぐれていたのだった。
「咲、大丈夫だった?」
「うん、何とか。リオは?」
「何とか」
 酷く疲れた顔で言えば、咲は可笑しそうに笑った。
 会場に着いた頃には、辺りは暗くなり始めていた。徐々に、周囲が見えづらくなっていく。その中、人をかき分けて花火を見る場所を探した。咲の白い浴衣は、暗闇になりつつある空間の中、目立っていた。暗い周囲の中にぽっかりと浮かぶ白は、まるでそこに光があるようで。
 そこを目指していけば、救われる気がして。
 白い浴衣がくるりとこちらを向く。
「リオ!」
 空いている場所を見つけたのだろう、大きく手を振ってくる。
「あそこにしよ!」
 追いついた李桜に、ある一点を指差す。確かにそこは人が少なかった。しかし、打ち上げ台からはだいぶ離れている。それを言えば、咲は大きく首を横に振った。
「良いの。花火は大きいから、どこからでも見れるし」
 あっさりとそう言って、咲は歩き出した。その後に続く。咲の足は止まらず、速かった。速くあの場所へ。そう言いたげに急ぐ彼女の背を、眺める。
 なんだか、咲がだんだん遠くへ行っているみたいだ。
 手を伸ばしても届かない場所へ。人の茂みの向こうへ行ってしまって、見えなくなって、置いて行かれてしまいそうで。
 どんどんと人をかき分けていく咲の背中に、白い光に、手を伸ばす。
 一人になってしまいそうな気がした。遠くへと行く幼なじみの背中は人混みに紛れていく。見えなくなる。消えてしまう。
 光が、遠ざかっていく。周囲が暗闇に犯されていく。光が消えていく。
 人混みの中に入っていった白い光は、次の瞬間、どこにもいなくなっていた。あの背中が見えない。どこにもいない。伸ばす手が震える。唇が震える。体が、重くなっていく。
 お願い。待って。消えないで。
「咲――!」
 ――ドーン!
 大きな爆発音と大きな振動が李桜を覆った。腹の底に、響いてくる。ヒュルヒュルという細い、奇妙な音が上へ上へと上っていく。
 ――パーン!
 上空から勢いの良い破裂音が落ちてくる。同時に視界があっという間に開けた。
 明るい光の中に、微笑みながら空を見上げる人々がいる。そして、その中で誰よりも眩しく光る笑顔が、李桜には見えた。
 その姿は、あっという間に消えた光と一緒に暗闇に紛れてしまう。
 李桜は走り出した。空を見上げる人々の中を、腹の底をどっしりと振るわせる打ち上げ音の中、脇目もふらず、走る。そして、手を伸ばした。
 ――バーン!
 二発目の花火に照らされた咲の表情は驚きで満ちていた。
「リオ……?」
「……どこ、に行ってるんだよ」
 息が切れる。声が次々に上がる花火にかき消される。
 それでも、あふれてくる言葉は続いて。
「いきなり、どこかに行くとか、しないでよ」
 しっかりと掴んだ咲の手首は細くて。
 この存在がいなくなることが、あんなにも怖かったなんて。
 ――バーン! バーン!
 連続して上がる花火に、絶え間なく周囲が照らされる。困惑した咲が、変わらず目の前にいる。ああ、そうだ、と思う。
 花火は大きいから、どんなに離れてても、見えるし、照らしてくれるんだ。
「リオ?」
 心配そうに顔を覗き込んでくる咲の手首から手を離す。そして、顔をあげて上空を見上げた。大きく息を吐き出す。
「……はぐれたかと思った」
「迷子?」
「違うから」
「ふふっ、リオ、中学生にもなって迷子のお知らせされちゃう?」
「されないから!」
 花火の音にかき消されながらの会話はつらかった。次第に、ただ上を見上げるようになる。それでも、良かった。
 隣を窺い見る。咲が目を輝かせて花火を見上げていた。いつもは黒い瞳に、鮮やかな花火が映り込む。瞳の中で花が咲いているようだった。
 大きな音を立てて花火が上がっていく。地響きと振動と破裂音の中、李桜は周囲を照らしては消えていく夜空の明かりを見上げていた。
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