いつからだろう。こんな感情を覚えてしまったのは。
雪はどこか苦しい胸を押さえながら、仕事場へ向かっていく。
母が病死し、その後父がすぐに再婚した。実家は呉服屋で、父の祖父母と父と母で店を切り盛りしていた。しかし、父が迎えた新しい母の妊娠がすぐに発覚し、体調が優れないといって店に顔を出さなかった。しかし、店も人手が足りているわけではなく、今雇っている人数分の給与を支払うだけで手一杯で、これ以上人は雇えないということで、雪が働きに出るようになった。
まだ幼い弟妹は、遊び相手兼世話係だった姉が側にいなくなると、継母に甘えようとしたが、実の子でないからと、継母の弟妹への態度は酷く冷たいものだった。
「―――何をやっているの! 役立たずね。とっとと洗い物をしなさい! 私は身重なんだからね」
雪に与えられた仕事は、本来接客のみのはずだった。雪はまだ14で、着物に関する知識も経験も浅い。その為、子供用の着物のみを扱っていた。しかし、継母は身重だからと理由をつけ、家の事も一切やらなかった。
(―――再婚する必要なんてなかったのよ。腹の子の父が本当は誰かも分からないのに)
雪は黙って洗い物を手に取り、桶を手に裏手に回った。裏手には用水路が流れており、人々はそこで洗い物をしたり、野菜を洗ったりもしていた。桶へ水を張ると、板を取り出して黙々と洗い始めた。
実は、父と継母の出会いは長くはない。父が母を失って悲しみに明け暮れていたとき、優しく声をかけてきたのが継母だったという。その晩、父は帰ってこなかった。父は、お酒も飲んでいたから、自分が冷静でいられた自信はないと言っていた。けれど、たった一晩で身篭ることなどあるであろうか。それから再婚にいたるまで、父は継母と同じ部屋で眠ることすらなかったのに。
「ゆきねぇ、おとうはいつ遊んでくれるの? いつになったら、おかあは帰ってくるの?」
「幸、伊助。おかあはね、遠いところに行ったのよ。もう、しばらく帰ってこれないの。おとうはおかあの分まで、着物を売らなきゃいけないんだよ」
幼さゆえに、母の死すら知らされていない弟妹を前に、雪はそれ以上言うことができなかった。もう少し大きくなれば、きっと母が亡くなったのだと、自然と理解するのだろう。
「雪。何をやっている、それはあいつの仕事じゃないか」
きっと、客が帰って、ひと段落着いたのだろう。父が裏手に顔を出し、洗い物をしている娘を見て驚いたように声をかけてきた。
「おとう、分かってるでしょう。あのひとは何もする気がないんだよ。いくら身重で悪阻が酷くたって、お茶くらい入れれるだろうに。食事のときだって、お茶すら入れないじゃないの! いいかげんにしてよ。おとうは良い人すぎるんだ。身重だってね、働きもしない人を置いて置けるほど、うちは余裕なんてないはずなのに」
父は黙って雪の罵倒を聞いていた。そして、雪の背をそっと撫でると、厳しい顔をして店のほうへ戻っていった。
やがて洗濯が済み、雪が店側から部屋へ戻ると、父と継母の言い争う声が聞こえてくる。そしてしばらくすると、継母は荷物を抱えて出て行った。
もともと、うちに来るときもほとんど何も持っていなかった。あれはこうして、すぐに出て行けるようにということなのだったのだろうか。
「あぁ、雪。すまんかったな……これから、もっと迷惑をかける」
「おとう、あのひとは? 急にどうしたの」
「父さんの子じゃなかったよ。雪に怒られて勇気が湧いてね。思い切って怒鳴りつけたんだよ―――それだけ見栄を張って生まれる子供が、俺の子でなかったらただでは済ませないってね。そしたら、『誰があんたの子なんて産むと思う』って出て行った。そういうことなんだろう」
父の顔は、残念そうな言葉とは裏腹に、とても晴れやかな顔をしていた。
雪は父を抱きしめ、涙を流した。胸の中に溜まっていた恨みが晴れた気がした。
その後分かったことだが、その女は昔から同じような口実で男たちを騙していたらしく、職を転々とし、名前を変えてまでそれを繰り返しているという。
その後、懲りずに父は再婚したものの、その新しい母はとても優しい、雪たちの実母に似た女性だった。雪は、この人ならこの先も共にやっていけるだろうと思えた。