すみれ
部屋を飛び出した。心中してやろうと思った。
手のひらに小瓶を忍ばせた、渾身の家出だった。
長年連れ添った彼と別れて、全てが順調に進むようになった。
渋られていた企画もすんなり通り、上司との不仲も解消され、苛立ちと笑顔の割合が変わった。
順調。
そう、順調、なのだ。
それなのになぜ――こうも、虚しいのだろう。
世間では、まるで恋愛が素晴らしいもので、そのために生きていくのが当たり前かのように吹聴しているけれど、そんなの嘘だ。
恋愛はそんなに素敵なものじゃない。
もっと、もっと、
怖いものだ。
開けた所に出たと、目をつむったままでもわかった。
肩で息をしながら、ゆっくりと瞼を開いて、観下に広がる景色に息をのんだ。
がむしゃらに走ったせいで、土地勘も何もない、全くの知らない場所。
さぁあああ、と風が吹き、微かな菫の香りが、鼻をくすぐる。
ふと、香水は良い香りだけでできていないという話を思い出した。
アンモニアやタール、鉄といった香りも混ぜるのだという。
そうすることで、より良い香りを際立たせることができるのだ、と。
同じように。
いい思い出も、いい感情だけは成り立たないのではないだろうか。
不意に潰れそうになる、記憶。
自由にならない忸怩とした、想い。
心の底に澱のように凝った、気持ち。
それが、それこそが、思い出なんじゃないか。
だから、そう、
憎んでしまえば――嫌ってしまえばいい。
いい香りに、嫌な匂いを重ねてしまえばいい――
菫の風が吹く。
混じりけのない純粋さ。
清廉の代名詞。
――のに、
私は堪えきれずにうずくまった。
無理だ。
好きだ。好きだ。好きだ。
たまらなく好きだ。
どうしようも、ないんだ。
いい歳して、と笑ってほしい。変わらないでしょ、と笑い飛ばしたい。
好きだ、と一言でいい。一言だけでいい。
けれど、無理なんだ。
もう、無理なんだ。
だから、
立ち上がり、土を払い、顔を上げる。
香水には嫌な香りも含まれている。
それはいいものを際立たせるためだけに。
だからせめて、
「清々」握りしめた小瓶を遠く――遠くへと、投げ捨てる。「するわ、ボケー!」
{憎まれ口を叩かせて}(幸せを、祈らせて)ほしい。
私は菫の『綺麗』にはなれない。
人工的に取り繕った香水の様に、
誤魔化し、誤魔化し、
いい所だけを際立たせながら生きていくしか、ないのだ。
「ありがとう」
頬に涙が伝い、落ちた。
その滴の先にある掌にはまだ、彼が好きだと笑った香りが、微かに残っていた。