グレーな記憶




「なーあ、機嫌なおしてってー。ね。つい出来心だったんだってー」
「…………」
「あ、ほら、見てこれ。じゃじゃーん。美樹ちゃんの大好きなケーキですよー。表参道に最近できたお店なんだってさ。三時間待ちだったんだー。ほらほらー。おいしそうでしょー」
「うるさい」
「ほら、ね、一緒に食べよ。うん。甘いもの食べて。ね。話し合おう! ね」
 そこで彼女は、あのさあ、とため息をつき、
「あんた、自分が浮気しといて、どうしてそんな反省がないの」
 反省?
「してるよー。もちろん。そのためにこうしてケーキ買ってきたんじゃない」
「いや、だから……だったら、どうしてそんなに無邪気に笑ってられるのよ」
 彼女は眉間を押さえ、首を振り、それに、と続けた。
 長く、けれど丁寧に手入れされたツメが、痛々しく肌に突き刺さっている。
「なんでよりにもよって、友達なのよ。行きずりの女ならまだしも、ばれるにきまってんじゃない、そんなの」
 そして次の僕の言葉で、その爪は、粉々に砕け散ることになる。
「だって」僕はへらへらと笑って言った。「あの子、僕のこと好きだったみたいだし」
 だからまあいいかなって、と言い切る前に、彼女の体重の乗った一撃が、僕の意識を刈り取った。

 * * * * *

 目が覚めたら、見慣れない天井が見えた。
 真っ白な――過剰なまでに清潔感のある、白。

 病院だった。

「気がつかれました?」
 視線を動かすと、看護師のレミさんが微笑んでいた。
「ええ、まあ、なんとか」
 反射的に、僕も微笑みを返す。
「最初に見えたのが、あんまりきれいな看護師さんで、もう一回失神するかと思いましたけど」
「……開口一番にそんなことが言えるのなら、大丈夫そうですね」
 あきれ交じりにそんなことを言われる。
「そんなんだから、彼女さんに怒られるんですよ」
「ああ」そこで気絶するまでの経緯を思い出した。「そう、ですね」
「彼女は?」
「とっくに帰られましたよ。……ああ、それと伝言です。「もう連絡してくんな」だ、そうです」
 はあ、とレミさんはため息をつき、
「いったい何をなさったんです? ここまで怒らせるなんて」
「浮気です」僕はへらへらと笑って言った。「それと正直な感想を少々」

 僕はここに運び込まれるまでの出来事を――多少誇張して――説明した。

「看護するのも嫌になるくらいのクズっぷりですね」
「ひどい」
「どの口が言いますか」
「慰めてよー看護師さんー」
「死んでも嫌です。股間から腐れ」

 あはは、と僕は笑った。
 愉快な方だと思った。
 辛辣で、けれど嘘がなく、
 言葉の裏を鑑みない、気持ちのいい方だなあと。
 最初にあった日から――何も変わらない。

 だから、かもしれない。
 口が滑った。 

「あと、どれくらいなんですか」

 黙々とレミさんは作業を続けていた。
 シーツを換え、体をふき、点滴を確認する。
 僕の面倒を看続ける。
 きっと、ずっと。

「僕は、あとどれだけ起きていられるんですか?」

 それはきっと僕が、
 僕という意識が、消えてなくなるまで――

「やっぱりさっきの質問は、なしで。僕ちゃんにはこんな真面目な話、似合わな――――」
 そう言いかけて、
「私は、看護師ですから、あんまりはっきりしたところはわかりませんが」とレミさんが続けた。
 作業を止めることなく、僕の言葉には気がつかないふりをして――いや{自動人形}( 、 、 、 、)である彼女は本当に気がつかずに――「三度の入院、二度の緊急搬送、投薬も意味がない、とすると」
「あと、三日ほどじゃあないですか」
 そう、彼女は続けた。

 ブランク・シンドローム。
 鬱などの精神病が蔓延し始めた2000年代初頭から、存在が確認されるようになった、伝染する意識障害。
 その主な症状は、思考の停止――――
 この病にかかったものは自意識を保っていられる時間が、徐々に少なくなっていき、最期には――その呼吸すらも忘れてしまう。
 感染の初期段階として睡眠時間の増加、白昼夢、記憶の断線、などが挙げられるが、これらの症状は従来の精神疾患と大きな違いがなく、診断が非常に難しいため、発覚した時には、たいていの場合が末期だ。

 例にたがわず、僕も、そうだった。

「そう……ですか」

 さらに、この病の一番の特徴として、その特殊な感染経路があげられる。
 唾液や精液などの体液や粘膜接触など、物理的なものでは感染しないのだと言う。

 意思の共有。
 意見の共有。
 感動の共有。

 共感。
 それがこの病の、唯一の感染手段。

「――――」

 彼女に会いたかった。

 もし共感されてしまったなら、
 彼女にもこの苦しみを味わせてしまうとわかっていても。

 どうしても、
 どうしても――会わずには終えられなかった。

 最後くらい。
 一目だけ。
 そんな言い訳で自分を騙くらかして、
 浮気をしたと嘘をついて、

 間違っても。

 僕と会うことで
 「喜び」という感情を共有してしまわないように。

――悲しくて仕方がなかった。

 希望とは目に見えず、けれどそれは、人の胸の内に確固として存在するから恐ろしい。
 あるにちがいない、あるはずだ、という盲目的な信仰があるからこそ、人はそれを追い、求め、気づかぬうちに――墜ちていく。
 それにすがるあまり、もっと大事なものを見落としていく。

 僕は彼女に会うべきではなかったのではないか。

 最後に一目。
 そういう願いだった。
 祈りにも似た、
 それは懇願だった。

 けれど、
 共感も得られないのに、

 彼女と、
 何かを、
 思いを、分かち合うこともできないのに、

 会ったところで――なんの意味がある――――

 矛盾でなく。
 対立でもなく。

 希望と願望と憧憬と
 絶望と後悔と憎悪と

 ぐちゃぐちゃに混ざり合った、
 黒とも茶ともいえない、濁った――けれどありのままの心。



 会いたかった。
 好かれていたかった。
 たとえ僕が歩みを止めたとしても。



 会ってはいけなかった。
 嫌われたくないのなら。
 たとえもう二度と彼女と会えないとしても。



 もう二度と、気持ちを通わすことはできないのだから――――――――



 静かに横たわる純白の中で、僕の思考は、沈み込み、溶けていく。

 ああ、どうか、どうか。

 ちぎれていく意識の中、最後まで心にあったのは、明るい感情だったならいいと、



 せめてそれだけを、僕は、祈っ――――




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -