カーネーション
うるせえ、ババァ!
そんな暴言を聞くために、あんたを産んだのではない。
そんな言葉は思考の底へと沈めてしまって、浮かび上がってこないように厳重に鎖で巻いて、慎重に鍵をかけて、気付かないよう気付かないよう、誤魔化し誤魔化し、過ごしてきたけれど、
もう、限界だ。
ぶっちゃけ限界だ。ぶっちゃけ、なんて死後を口に出してしまうくらい、限界。流行ったの何年前だよ、と自分にツッコんで、流れた年月につい、ため息がこぼれる。
こんなはずではなかった。
性格よし、年収それなり、容姿は……まあ、贔屓目に見て、中の上といったところ。
そんな旦那を捕まえて、子宝にも恵まれて、決して裕福ではないけれど将来を悲観しないでいられるくらいには、安定した生活。
安定。
なんて――つまらない言葉だ。
ああ、イヤ、だめだ。違う。
きっと、こんなことを考えてしまうのは、何不自由ない生活をしているせいだろう。
旦那にときめかないくらいなんだ。子供にババァと言われるくらいなんだ。
これくらい、みんな抱える悩みだし、日常のささやかなスパイスみたいなものだ。
どうってことない。
どうってことは、ない。
そうだ。
きっと、そうだ。
私は幸せじゃないか。
けど、
けれど。
みんな、チラリとも思うことは無いのだろうか。
どこかでまだ、もっと幸せになれる機会があるんじゃないかと、期待することは無いのだろうか。
念入りにメイクをして、おしゃれに着飾って、香水を振りまいたなら、きっと、もっと、どこかにある素敵な生活の入口が、私を待っているんじゃないか。
そう考えたことは、無いのだろうか。
たったの一度も。
日常からの逸脱を望んだことは?
私はもう止めてしまいたい。
何にもかもをリセットしてしまいたい。
全てを白紙に戻して、描きなおしたい。
私は、
私は母親を、
――不意に、おいババァ! と息子の声がした。
誰がババァだ、この野郎! と反射的に飛び出した。
しかし、今回ばかりはその言葉を継ぐことはできなかった。
――ああ、もう、このバカ。
私はさっきまでお前を無かったことにしたがってたんだぞ。
母ちゃん、母ちゃん辞めたいって思ってたんだぞ。
なのに、なんで、あんたは――
ああ、もう。
あんたの言うとおり、私はやっぱりババァかもしれない。
後ろに手を回して玄関に立つ息子の姿が、次第に輪郭を失くして滲んでいく。
たまらず、目頭を押さえる。
彼がこちらへと駆け寄ってきた時、その表情まではわからなかったけれど、
その手に握られているカーネーションの色と、同じだけ真っ赤に染まった彼の顔だけは、
やけにはっきりと、わかった。
誰かを振り向かせるような香水はもう無いけれど、
そこにあるだけで、
誰かをこんなにも喜ばせることができる。
そんな香りが私にも、身についたならいいと、思った。