今様歌物語
〜ここにいたい〜
後編 04
あの日のことが頭に焼き付いて、なかなか寝付けない日が数日続いた。それでも一週間もすればその心の高ぶりも落ち着きを取り戻し、最近は昼間に眠くなってしまって困る。
ホットよりもアイスが欲しくなる、そんな季節が近づいてくる。いつもの喫茶店で灯火野くんと二人顔を合わせる。
「彼の言う『小説を書く意味』は、特定の誰かにその小説を読んでもらうこと。ただ、彼自身特定の誰かに対して作品を捧げ続けることの限界を知っていて、だからあの言葉が感情とともに口をついたという訳だったのですね」
私たちの中で幾度も繰り返されてきた春の自己紹介のワンシーン。『小説なんて、俺にとっては何の意味も持たない。書く奴の気も知れない』、それは彼が戦い続けた葛藤から生じた言葉だったのだ。
「その言葉に僕はあの時言いようもない激しい感情を覚えた。彼のその考え方が間違いだとは思わない。僕だって、誰かのためにずっと小説を書き続けていた時期があるからね。彼と同じ高校時代に」
はっとする。私はこの頃の話をする灯火野くんの顔をどういう表情で見ればいいのかいまだによく分かっていない。どういう思いで彼が私の姿形を受け入れようとしているのか、考えただけで心が針に刺されたように痛くなる。
「彼女のことをいつも心の片隅に置きながら、僕はずっと小説を書き続けていたよ。彼女は別に僕の小説を読んでくれたわけではなかったけど、ただ、彼女の思いを僕が背負ってどこかに伝えなければいけないような気がしていたな。書き続けていないと、彼女はもう二度と僕の前に現れてはくれないと固く信じていた」
懐かしむようなその目は、あの日速水くんが見せてくれたまなざしによく似ていた。
「彼女はいないと知りながらも、彼女の存在を未だにどこかで気にしながら小説を書き続けている僕を、僕自身が情けなく思っていたのかもしれない。だから彼の言葉を聞いた時、曖昧な意味を持ち続けながら小説を書き続けている僕は腹を立てた。僕は、僕自身に怒っていたんだ」
小さなスプーンでクリームは崩されて、灯火野くんのカップのココアにじゅわりとまろやかな色が広がる。
「技術もろくにない僕が、それでも小説を書き続けるのはなんでだろうって、時々自分でも思う。でもそんな時にはいつもあの出会いが僕に意味を教えてくれる。でもそれは、どうしても言葉にならない意味なんだ」
「順風と光芒まとい立つ姿言ノ葉よりも確かな煌き
言葉で語り尽くせることなんてなにもありません。現実の無限さに比べれば、言葉はあまりに有限すぎますから」
その有限な言葉の砂漠の中で、それでも私たちは彷徨い、また歩き続ける。未だかつて出会ったことのない真実にいつか辿り着くことを信じながら。
「今度、私のお気に入りの喫茶店に行きましょう。きっと、灯火野くんもそこで小説が書きたくなると思いますよ」
「えっそうなの? じゃあ今度ノートパソコンもお供して行こうかな」
「……たまには手書きで執筆すればいいのに」
言葉に触れる時間が多いからこそ、その不完全さを身にしみて感じる。だからこそ言葉がいとおしく、言葉の一つ一つに時間と生活をつぎ込みたいと思う。必要とされて産まれた言葉の一つ一つが背負うドラマを想像したら、私のたかが二十年の人生なんて大したことないのかもしれない。
【了】
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