普段から甘い香りが漂う店内は、最近その香りの質が変わった。人々の財布の紐が年度末に向けて固くなる二月、店の中は慌ただしくなり始めている。


『I love you』


 最後に小さくハートマークを付け加える。細くて白い文字がセピア色の上で踊る。そのトーンのかわいらしさに僕は苦笑いせざるを得ない。


(男が書いてるって知ったら、貰った男も嬉しさ半減だよなあ……)


 パティシエとしてこの洋菓子専門店で働くようになってから三年、バレンタイン用のチョコレートを準備するのも今年で三回目だ。





 閉店時刻が近づき、店には片付け当番の僕だけが残った。大方の道具を片付けると、僕は一つデコレーションチョコを作り始める。溶かしたチョコはこの店自慢のスイスのもの。シンプルな長方形の型に薄く伸ばし、柔らかいうちにチューブに残りを入れる。冷えて固まっていた上になった頃を見計らって、温度を調節しておいたチューブを絞って枠を描く。チューブの口の刻みに沿って角張ったデザインの枠飾りが出来る。

 そこで僕の手がふと止まる。その次の手順に少し戸惑ったからでもあり、突然の来客によるものでもあった。
 外の雪は暖冬の影響なのか、毎日のようにみぞれまじりだ。
 そんなみぞれに濡れたきれいな女の人が、思い詰めた顔で入店のベルを小さく鳴らした。





 いらっしゃいませ、と小さな厨房からこれまた狭いレジの方に顔を出した僕に見向きもしないで、彼女はティータイムスペースに無造作に腰を下ろした。細い体なのに、どさっと椅子にもたれかかる音が重かった。


「今日……何の日だと思いますか」


 彼女が呟く。聞こえてしまったからには、答えなくてはいけない。


「二月、十四日ですね」

「違う、もっと、世間的に」


 彼女は少しいらだっていた。僕は観念して答える。


「世間はバレンタインデーかもしれませんね。でも、僕にとってはただの二月十四日です。バレンタインだろうがホワイトデーだろうがクリスマスだろうがそうでなかろうが、僕はいつも同じくらい心を込めてお菓子を作ってますから」


 それが僕の仕事。僕が作る一つ一つのお菓子に、僕個人の思いを込めるのは逆に、失礼なのだ。


「だって、なんでもないその日が誰かにとってとても大切な人の誕生日かもしれない。今日また一つ新しい命が誕生して、それを家族親戚みんなで祝うためのお菓子かもしれない。世間がどんなに盛り上がっても盛り下がっても、僕のお菓子に対する気持ちは一瞬も変わりません」


 彼女が纏っていた負のオーラが一枚一枚はがれていくのが見えるようだった。僕は笑顔で繰り返す。


「だから今日は、僕にとってなんの特別な日でもありません」


 ただ、いつもよりかなり忙しいだけ。僕がそう言うと、初めて彼女は笑ってくれた。





 ねえ、店員さん。彼女が僕を呼んだ。


「本当の寂しがりやって、自分のことを『寂しがりやだ』なんて言えると思う?」


 ――ねえ、わたし、あなたと話せて嬉しいよ。だって、私、寂しがりやだから。

 目の前の人とは違う、綺麗で懐かしい声が僕の耳でこだました。


「そんなの、どこまで本当か分からないじゃない。寂しがりやは、素直になったその瞬間から寂しがりやなんかじゃないのに」


 そう言って、彼女は堰を切ったように涙をこぼし始めた。溢れる涙は止まることを知らず、止まるどころかたくさんの筋を作って彼女の頬をいくらも濡らした。

 ――楽しかった。また、明日話そ。

 寂しいのと訴える彼女の側には僕しかいないと、そんなとんでもないことをどうしてあの頃の僕は考えていたのだろう。





「これ……よかったら、どうぞ」


 僕が彼女に差し出したのは、作りかけのチョコレートの板。枠だけ丁寧に書かれたそれは、中央部分が真っ平らでなにもない。


「どうしても、書けなかったんです。渡せないチョコに、僕が書けるメッセージはなにもありませんから」


 はっと気付いたように、彼女が僕を見つめた。笑うくらいの余裕があったのは、僕がその答えをずっと前から知っていたからだ。


「彼女はきっと、僕じゃない誰かを想いながらどこかでチョコを買って――もしくは自分で作って――今日という日にそれを渡したんだと思います」


 ――ねえねえ、あのね……。

 跳ねるように踊る文字列、幸せそうな空気はそれだけで伝わった。僕の返信は、不思議なことに、普段通りだった。


『おめでとう。僕も、自分のことみたいに嬉しい』


「このメッセージのないチョコレート、僕が捨てるよりもあなたに食べてもらった方がいいかもしれない。というか、僕は是非あなたに食べてもらいたい」


 むき出しのチョコレートは、彼女に今ここで食べることを無言にも強要した。震える唇にくわえられ、噛み砕かれる甘い板は小さくパキパキと鳴る。その甘さを僕は想像できるけど、彼女がどんな風に味わっているかは分からない。

 涙はいつか乾くもの。でも、大切な人からもらった言葉は、心の中でいつまでも乾くことを知らない。
 彼女は最後まで何も言わずに、チョコを全部食べてくれた。お互いに言葉にできなかった気持ちを共有できたみたいで、僕は少し救われた気持ちになれたのだ。





【了】


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