楽しいことのあとに待っている空気が一番、楽しい時間を台無しにするんじゃないかと思うことはしばしばある。遊びの後の帰宅、祭りの後の片付け、デートの後のシャワー。始まる前は食べきれるかどうか心配だったほどの量のの肉を豪快に焼ききり食べきったバーベキューの後のゴミは普段よりも汚く見えたし、網や鉄板は焦げや油汚れを吸ってとても重かった。
僕らの大学は海岸線沿いに立地しているので、少し歩けばすぐに浜辺にいける。若者がよく出向くせいかゴミやタバコの吸い殻が多少散在しているが、それさえ気にしなければ海は穏やかで浜辺は広く、どんなにはしゃいでも足りなくて、虚しいほどだ。――これらは全て、僕が今日知ったこと。ここの海に行くのは初めてだった。
参加したのは学科の半数くらい。最初に声をかけられたときは人数が足りないとのことで、それならばと誘いに乗ったわけだが、夏休みが近づくにつれて参加希望者が増え、結局20人の大宴会となったのだ。「人数が増えたなら僕は参加しないよ」とはもちろん言えない。それは、喜びは人数に比例するという大学生の合い言葉に背く行為だからだ。
しかし、左良井さんはいなかった。
左良井さんはこういう学科の集まりに積極的なタイプではない。この前の縦コンだって、先輩がいるから義理で参加したような感じだったし、そもそも左良井さんははしゃぐのが苦手なのだ。
『騒ぎわめいてる若者の顔を見るのも嫌。子どもっぽくて知性に欠けてて……隙のありすぎる顔。近づきたくもない』
馬鹿馬鹿しいと思っていても、見ている分にはまだ愉快だと感じられる僕はだから、単純でお気楽なのかもしれない。
「楽しかったねー、またみんなでやりたい」
いない人のことを考えながら遠く海を眺めていた僕の隣に、紙コップや紙皿をまとめたゴミ袋を手に提げた志摩さんが並んできた。入学式当初からさして変わらないさっぱりと軽い髪型は彼女の表情を凛々しく見せ、少し焼けた肌に明るい茶髪が典型的な「大学生」をにおわせる。
「あたしの地元、海が無いんだ。だからこうして浜辺に集まってバーベキューとか初めてなの。『え、そんなことも出来るの!?』って驚いたくらいだよ」
生き生きとした表情はとても新鮮に映る。左良井さんがこんな風に笑うところ、一度でいいから見てみたいかもしれない。
「それは、いい経験になったね。そんなに楽しんでもらえると地元民としては嬉しいよ」
とはいえ、僕もそんなに頻繁に海に行ったことは無いんだけどね、とおどけて言うと彼女はころころと笑った。素朴に、可愛いなと思う。そしてボーイッシュ≠ニいう言葉がいかに外面的な言葉かを知った気がした。
「おいおい、青春してんじゃねーよー」
並んで歩く僕らを学科の男子がはやし立てた。
「はは、違うよ」
手の平を振って柔らかに否定しても、ニヤニヤと下品な笑みしか返ってこない。考えることが若すぎるというか、これが大学生か。
志摩さんの方を伺うと、気まずそうに固く口を結んでいた。
「気にすることはないよ、ああいうのは茶化すのが楽しいだけさ」
「うん……ごめん……」
「謝ることもない」
素直だ、素直すぎて面白い。
「わ、笑わなくたっていいじゃん」
思わず口元だけ笑ってしまうと、志摩さんも少しだけ笑って返してくれた。
これからはみなそれぞれで帰宅だ。日に当たって疲れた身体は、とても二次会には耐えられないだろう。現に、誰もこの次の予定を言い出してこない。まあ、酒なんてみんな浜辺でしっかり飲んでいたが。
再び振り返る。すぐ近くにあるのに自ら出向こうと思わなければなかなか足を伸ばさない、海が目の前に広がっている。その片隅に確かに見えた影。
「えっと、ごめん。みんなには先に行くよう言っといてくれる? 僕はここで解散する」
「えっ、うん……」
彼女の返事を待つことはおろか、言うより先に身体が動く。
「あー。もう、行っちゃった……」
寂しそうに呟いた志摩さんの声が、このときの僕に届いたはずがなかった。
(間違いない……!)
自信を持って言える、あの影を見間違うことはない。早歩きは小走りになり、その背中が少しずつ大きくなっていく。その人は沖の方にせり出したコンクリートの架け橋の縁に腰をかけて、その長い髪を潮風にたなびかせていた。海側に投げ出された両足に力がない。近づくとき、自然と足が音を立てないように大地を踏む。
「左良井さん」
下手に驚かせて波に落としてはいけないと思いつつも、波の音のせいで僕が近づいたことに気付いていなさそうな彼女を驚かせずに呼ぶには、少しの緊張が必要だった。
しかし彼女はゆっくりと振り返る。振り返るために座る位置を少しずらしたそれだけで、僕の心臓は激しく踊った。立ち上がろうとする彼女に手を貸そうと思わずにはいられない。
なぜこんなところにいるのか、バーベキューがあったことは知っていただろうに……。今日でなくたって話したいことは沢山あったけど、あえてここで話さなければならないことは一つもない。
「潮風が気持ちいいのは認めるけどそこは危ないよ。一緒に行くから浜の方に行こう、もうみんなは帰ったから」
「別れた、あの人と」
「え?」
潮にまぎれてよく聞こえなかった。でも、彼女の方に伸ばしかけた腕の筋肉は少しこわばった。
「お別れした。もう、会わない」
それだけを言い残して沖を離れる。コンクリートから砂浜に足が移るまで、僕らは終始無言だった。声をかけられなかったのは、彼女が声を出すことさえ億劫そうだったからだ。
分かったのは、触れられなかった熱い炎はもう、冷めていたのだということ……。
「一緒にいるのは適切じゃないと思った。彼が深みにはまればはまるほど、私はどうしようもない『ぬかるみ』になっていく。見ていられなかったの。ぬかるみに足を取られていくあの人も、あの人を引きずり込む私という存在そのものも」
波に濡れた砂は重く、左良井さんの足跡は深くついてはすぐ消されていく。
「それでも私は、私が彼につけた傷をどうにかして癒してあげようとした。私がつけた傷だったから。かつて私は、彼を心から想っていた――それは確かな事実だったから」
波打ち際で白い泡が両足を浸す。サンダルのつま先についた小さな海藻を片手でつまみ上げて波に返す。その仕草が、うつむいた表情が、目をそらせないほどに儚い。
悲しいというよりもそれは、何かに対して怒りを覚えているような、悔しそうな表情だった。
「彼の側に私がいる限り、傷は傷のまま残ると思ったの。傷が癒えても、私は傷跡として彼の一生に影を作る。だから私は、彼から離れた」
でも、それでまた彼を傷つけたのかもしれないと思うと、と彼女は唇を噛む。
「何が正解だったのかな? もう、分からないよ」
夕日が沈み始めた赤い海が、彼女が投げた小石を飲み込んだ。一石を投じたところで水面は表情を変えたりはしない。
「取り返しのつかないことなんて、いくらでもあるさ。時間を巻き戻せない限り、そんなことは絶対無理だ。
後戻りの効かない数直線上を僕らは前進するしか無いんだもの。ついた足跡は消せない、そのまま歩き続けて忘れてしまうことしか出来ないよ」
僕らは立ち止まれない靴しか持っていない。僕らはその靴に歩かされているに過ぎない。
「いいことがあっても悪いことがあっても、何も無くたって前進は前進さ。そう信じて生きていくしかない。正解は結果論だ。正解ばかり見ているんじゃ、それこそ何も進まない」
夕日は沈みかけているのに、なぜかやけに眩しい。逆光になった左良井さんの表情はただの影だ。僕には何も読み取れない。
「やっぱり、私に幸せは似合わない」
どんな顔をして左良井さんはこのセリフを言ったのだろう。
それに対する適切な一言が見つからない。そんなことない≠セなんて、どうして言える?
適切であろうと思うから、その領域から言葉が見つからないだけなんだとは思う、きっと。でも僕は、時と場に相応しくあろうと努力することで精一杯だ。相手の気持ちを理解して、その人が楽になるような言葉を選べだなんて、難易度が高すぎる。
太陽や海に比べれば、人間はなんて小さいんだろう。そんな小さな人間の小さな悩みくらい、少し疲れた左良井さんの悩みくらい、飲み込んでくれたっていいじゃないかと僕はさざ波に訴える。
夕暮れは暗順応よりもはやく、さざ波の音に沈む僕らはいつの間にか光ある闇の世界にいた。