名前を呼んで
05
「え……今なんて……?」
「嘘なんか、言わない。もう一度言う。もうここには来るな」

 柚希はフリーズして何も言わない。大きくて真っ黒な瞳だけが、緑の中で俺を映してグラリグラリと揺れる。見ていられず、俺は柚希に背を向けた。

「嫌いになったわけじゃないんだ。……それだけは、勘違いして欲しくない」

 俯いた彼女はなぜか、笑っていた。

「いつか、言われると思ってたんだ……じゃあね」

 ザ、ザ、ザ……風か、彼女の足音か。溢れ出す想いは目を閉じても止まらなかった。



 彼女が立っていた辺りの芝がくたびれている。

「『言われると思っていた』だと……?」

 うなだれ、一人でつぶやく。

「『自分自身のためだけに生きて、自分のことだけを考える人生を送る人なんて、つまらないよ。少なくとも私は、あなたをそうは評価しない。』あれは全部嘘なのかよ……」

 だってそうだろう? 今俺のやったことは、全部俺のエゴだ。表向き、柚希を傷つけまいとしているように見えるし、実際このまま一緒にいたら俺は自分のくだらないひがみで彼女を傷つけかねない。だけど。

(自分が傷つくのが怖いんだろ?)

 優秀な柚希の隣にいることを、辛いと思ってしまった。手放してしまった。「来ないでくれ」だと? 俺は悠々とここにいて、「来ないでくれ」だと? ただの独りよがりじゃないか。
 どうして俺みたいな奴が生きてんだよ。性根の腐った俺みたいな奴が……。
 ポケットに携帯していたカッターナイフを取り出す。カチ、カチと刃を伸ばしていく。今ではもう懐かしい、昔の刻印に一つ、涙が零れた。

「柚希……ごめん」

 手首に刃をあてがう。

「好きだった」

 あとは、力をいれるだけだった。



「やめてっ……!」

 背中に硬い衝撃。その勢いでナイフは手首から外れ、空中に吹っ飛んだ。放物線を描いて一メートルほど向こうに着地したカッターナイフは小石に当たり、その長い刃は歪な形に折れた。

「ゆ、柚希……」

 息を切らした柚希が、投げられた学生鞄と縮んだナイフを拾い上げてツカツカとこちらに迫ってくる。
 スパァン!
 気づけば、頬が熱い。柚希の右手と、おそらく俺の頬が熱くなっている。

「死ぬなんて、そう簡単にさせない」

 ゾクリとするほど、冷たい柚希の声。

「俺みたいな最低な男といたら、お前が駄目になるだろ?」

 絞り出すような俺の声は、対照的に弱々しい。

「どうして! どうしてそんなこと言うの!」

 俺の目が見開かれる。こんなに柚希が声を荒げたところなんて、見たことがない。

「私はあなたを傷つけてしまうことが怖かった。私が生きてあなたと一緒にいることで、あなたをコンプレックスの海に突き落としているんじゃないかって……辛かった。誰よりも傷つけたくない、あなたをよ!」

 柚希は俺の胸にすがりついた。ワイシャツに、熱い染みが、想いが広がる。

「あなたの傷を、リストバンドを見るたび、私も身を引き裂かれるような気持ちだった。……あのね、私だって辛いとか悲しいとか思うんだからね」

 いつだって冷静で、寡黙で、分析力のある彼女の口から発せられているとは思えない言葉の数々。柚希は俺から離れて、いつかの曖昧な笑みを見せた。

「私この前の誕生日で……十八歳になったの」
「十八……」

 俺らは高校二年生。満十七歳、のはず。

「本当よ。
 ……昔、集団が怖くてね。辛くて辛くて、この街に来るまでに一年かかってしまった。考えることは誰も傷つけない。誰にも侵されない……そう思うようになったのも、この頃。
 ここであなたに会えて、とても嬉しかった。もう誰とも関わるものかって思ってたけど、あなたの素直さがなんか、温かかった。笑顔でいられたの。信じられる、誰かのことをまた……そう思うだけで、学校が楽しい場所にさえなった。好きだったの……!」

 目の前の柚希が、零れる涙で自分の袖を濡らしている。俺に彼女のすべてをさらしている。
 俺は、彼女の何を知っていた? 彼女をなんだと思っていた?
 そんな愚かしい自分が、愛しい人に愛を告げられた時。

「ごめん、柚希……」

 俺は、そんな彼女を今までにないほど愛しく思えたのだった。こんな俺の、こんな腕で、また抱きしめたいと思ってしまったんだ。

「本当に、ごめん……」

 ついに彼女との距離はゼロになる。繰り返される「嘘ついてて、ごめんなさい……」の言葉が、痛切に響いた。

「辛かったよな、ごめん」

 こんなに小さくなった柚希の、壊れそうに薄い肩が震えている。俺自身の無知さ無力さを、ここまで苦く感じる日が来るなどと、誰が知っていただろう。

「好き……好きなの」
「もう言うな、なにも」

 柚希の髪からする控えめで清潔な香りは、全ての悲しみへのせめてもの代償なのだろうか。そしてその細い髪もしっとりと濡れてゆく。
 嘘とはどうしてこうも苦くて、大人になったようでなれていない感じがするのだろう。言葉なんて、もう要らない。考えたくない。答えを見つけてしまったら、今度こそ二人とも死んでしまうような気がした。



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