第4話 


(----望むのは、世界の返還)


 リーレイの家は湖畔にこぢんまりと建っていて、周りにあるものといえば、湖の他にはただただ視界いっぱいに森が広がるだけ。あとは、頭上を頼りなく覆う薄い空。

「ここには、あなたの他に人は住んでいないの?」

 相変わらず風は吹かないけれど、まるで人が住み着くのを嫌うように、外の空気は痛いほど冷たかった。

「友達がいるわ。ひとり。でも彼女以外には誰も住んでないわね、この辺りは」

 霜の降りた地面をしゃくしゃく踏み鳴らして、リーレイは後ろの僕を振り返る。

「住むにはあまり適してないのよ」

 多少の苦笑いを浮かべ、彼女は再び前を向いて僕を先導する。件の、『扉』のもとへと。
 ----住むにはあまり適していない、か。
 ならどうして、彼女はそんな場所に、友達が居るとはいえ独りで暮らしているのだろう。妹がいると、一緒に暮らしたいと言っていたのに?
 判らないことだらけだ。
 僕はかぶりを振って、思考を切り替える為に、眼鏡のブリッジを指で押し上げ----ようとして、今は眼鏡をかけていないことに気付いた。
 ……そういえば、あっちの世界に置いてきてしまったんだっけ。こっちには着の身着のままで来たから、僕の荷物はないに等しかった。
 でも、そんなことどうだっていい。眼鏡がないと日常生活に支障をきたすほどではないから、別になくても構わない。
 ただ、……眼鏡をかければ、この目に見えるすべてのものと、距離がおける気がして。
 そんな、他愛もない理由でかけていただけだから。
 ……いつだったか、僕が眼鏡かけた姿を見て、東海林がくだらないこと言ってたな。女子に人気があるとかないとか……。

「----葉月」

 突然の呼びかけにぎょっとして顔を上げると、物凄い至近距離にリーレイの顔があった。思わず僕は後ずさる。

「葉月は、元いた世界が嫌いなの?」

 底の深い、緑の瞳が僕を捉えた。

「そ----んな、ことは……」

 ない、とは言えない。
 ただ……。僕は、僕が生まれたあの世界を、一度も嫌いだと思ったことはない。
 矛盾している。いや、矛盾、ではなくて。

「ただ、興味が……なかっただけで」

 僕の瞳に映る、ありとあらゆる森羅万象に。ほんの一欠片も、僕の心は揺るがなかった。
 無意識に目を逸らした僕を、リーレイはしばらくじっと見つめていたが、不意に僕を視線の拘束から解いて、

「そうなの」

 哀しそうに呟いた。
 そんな彼女を見ていると、何故だか胸が痛む。……ような気がする。

「じゃあ、葉月はこの世界のことは好きかしら?」

 屈託のない笑顔。僕の心情などお構いなしだ。
「好きか、と訊かれても。まだ僕はこの世界のこと、何も知りませんし」

「----じゃ、わたしのことは?」




 数日ぶりに目にしたやたら巨大なその扉は、今こうして目の前に立ってみてもやはり、青いネコ型ロボットが出すアレにしか見えなかった。

 後ろを覗いてみたい衝動にかられるけれど、今はなんとか抑えておくことにする。

「ここを開けたらどこに繋がっているのかしらね」

 僕の後ろ、少し離れたところに佇むリーレイは、さっきのことなんてまるで何もなかったように無邪気に扉をしげしげと眺めていた。
 ここを開けたらそこはきっと僕がいた世界なんだろう。特に楽しくもない。
 けれどリーレイは妙にはしゃいでいて、僕はそんな彼女を呆れ半分諦め半分で眺め遣る。

「? なぁに?」

 下から覗き込むように顔を近付ける彼女から僕は僅かに身を引き、「別に」とだけ答えた。
 そしてそのままリーレイに背を向けて、改めて謎のうさん臭い扉と対面したけれど、正直そのときの僕は目の前の巨大な扉なんか見ちゃいなかった。
 ああ、なんだかとても……とても、動揺している。心がざわついている。そんなことに気をとられている僕自身にいらいらして堪らない。
 何より、あのときのリーレイの言葉を真に受けてしまったことにどうしようもなく後悔、している。




「じゃあ、葉月はこの世界のことは好きかしら?」
「好きか、と訊かれても。まだ僕はこの世界のこと、何も知りませんし」
「----じゃ、わたしのことは?」




 僕は文字通り固まって動けなくなった。そんなこと、本当にあるんだと思った。脳の伝達機能がフリーズしたみたいな感覚だった。
 ただひとつ、彼女から逸らしたばかりの瞳が、再び彼女を凝視したことを除いて。
 ああいうときは思考回路もストップするらしく、一言も言葉を発しないままの僕の双眸には、何故かまごつくリーレイの姿があった。

「えっ……と、ど、どうしたの葉月」

 ----どうしたもこうしたも。僕にだって判らない。

「……もしかして葉月、わたしのこと嫌いなの!?」

 潤んだ瞳で問いかけるリーレイに、僕はたぶん顔を青くして黙りこくっていたように思う。こんな事態にもかかわらず、ああ、言葉を失うってこういうことなんだと、妙に納得してしまった。
 僕が肯定も否定もしないので、リーレイはひとりで勝手に「僕に好かれていない」と思い込んだようだ。そう思い込まれても、……困るような、困らないような。
 リーレイはしょぼんとした面持ちで、どこか不満げに呟いた。

「……わたしは、好きになれるものが増えて、嬉しかったのに」
「……………………」

 ……どういう意味?

「好きなひとや好きなものがたくさんあったら、その分だけ毎日が楽しくなるって、わたし思ってるの。笑顔が多くなるでしょ? だからわたし、そういう意味でも葉月に会えて嬉しかったんだけど……」

 そんなのわたしだけよね、とどこか寂しそうにリーレイは笑った。
 その頃にはもう、僕と彼女の間に生まれた多大なる語弊に気付いて、僕の身体は硬直から開放されていた。
 喜ばしいこと、なのに何故か僕は落胆を隠せない。
 そんな僕には気付かずに、彼女はさらに言葉をつぐ。

「それはそうよね、初めて会ったばかりの君に、とんでもないお願いしちゃったんだものね。……わたしのこと、嫌いかしら」
「……いいえ」

 それは限りなく本音に近い返答だったのだけれど、リーレイは極めて額面通りに受け取ったようだった。

「ふふ、ありがとう。本音じゃなくても嬉しいわ。それともやっぱりお世辞?」

 にこにこ笑う彼女を目にして、同じ言葉を二度繰り返す、それだけのことがこんなに難しいものだとは思わなかった。
「いいえ」のたった三文字すら口に出来なくて。
 それでも、何でもいいからその場しのぎで適当に言えば良かったんだ。
 そうすれば、あんな寂しそうな笑い方させずに済んだかもしれないのに。
 僕は苦い顔で下を見る。

「早く行こう。……日が、暮れるから」

 平凡すぎる理由を盾に、彼女の脇を通り越して先を急いだ。

「でもわたし、葉月は優しいと思うわ。----だから、好きよ」

 ……最後の一言だけ、何故か耳について離れなかった。
 そして場面は戻る。




「葉月、さっきから何か変よ?」

 不思議そうに、心の底から不思議そうにリーレイは首を傾げた。
 それに僕は無言で一瞥を返して、いささか乱暴にドアノブに手を触れる。ひんやりと、冷たい金属の感触が手のひらに伝わる。

「……」

 回そうとしてもノブは回らず、どうなっているんだろうと僕は視線を上げて----
 次の瞬間、世界が変移した。

 轟々と風が唸る。砂が舞う。
 荒涼とした大地のそこかしこに点在する軍用車の数々、しかしその大半はぼろぼろと崩れ落ちてもはや原型を留めていない。
 時折悲鳴のような音が耳をつんざく。
 ----これは、何だ。
 空高く伸びた針葉樹。その頭上に塗られた薄い水色の空。風もなく音もない、冷えた土地。ここ数日ですっかり見慣れてしまった、あの風景はどこだ。
 ここは僕が知っている場所じゃない!
 動転して頭を振った拍子に、風に飛ばされた砂が口のなかに混じる。じゃり、と嫌な感触がするそれをたまらず吐き出して、僕がもう一度、辺り一面砂色の景色を見上げると、再び世界はその姿を変えていた。

『……に問う。我の…は----』

 頭に声が響く。ざらざらと、ノイズに塗り潰されるように、それは途切れた。
 次に見えたのは、巨大なきのこ雲。それから、崩落する大地。瞬く間に地面に亀裂が走り、まるで風化した粘土細工みたいにたやすく剥がれて海に沈みゆく。
 僕はもうまともに立っていられなくて、ふらふらと膝からくずおれた。
 見れば足元は地面ではなく、真っ黒い何かが敷き詰められている。

『汝に問う。----我の名は……』

 うるさい。煩わしい。
 僕に話しかけないでくれ。----誰も、何も。
 要らないと、思っていたんだ。
 いつの間にか僕の周りは黒一色で埋め尽くされ、床に手をついていないと右も左も、上も下も判らない。
 ここは何処。何処。
 楔が抜かれる。均衡を失って----。

『汝に問う。我の名は?』
「知らない……。お前なんか、知らない」

 漸く発した声はがらがらで、喋った僕の方が驚いた。
 終わりのない暗黒の視界に、僕の声だけがこだまする。
 他人の名前なんてどうでもいい。だから、

「僕の世界を、返せ」

 ----ゆらり。
 その言葉を発した途端、僕を中心に波紋が生まれた。綺麗に円を描いて幾重にもひろがり、そのたびに僕を取り巻く闇色は薄くなっていく。
 僕を喚ぶのは誰。
 想いが、さざ波のように僕のなかに響いて鳴りやまない。

『あなたが決めて』
『これは楔なんだ。----この世界を支えるための』
『私が護りたかったものは、こんなものじゃない!』
『……僕はずっと"約束"する。約束を護り続けるから』
『守護者になんて、なりたくなかった』
『欲しいものは自由で、それ以外何も要らない。その為にオレは世界を変えるよ』
『わたしが! お姉ちゃんの代わりになるから!』
『----どうか、もう解放して』
『それでもあたしは、笑って生きて死ぬわ』

 とめどなくとめどなく。それは流れ込んでくる。僕は頭を押さえてうずくまり、飲み込まれないようにするので精一杯だ。
 痛い。頭が、心が、身体すべてが。
 それでもなんとか目を開いて、ぼやけた視界に映ったのは……、少年がふたり。僕と同じ年頃の、ひとりは眼鏡をかけて穏やかそうな、もうひとりは平凡で、どこにでもいそうな----全く知らない人達だった。
 僕はその人達を見たことも聞いたこともない。けれど、彼らが着ている服には見覚えがある。
 それは----、僕の高校の、制服……。
 薄墨を流したような景色に、白い亀裂が走り、甲高い音を立ててそれは砕け散った。彼らの残像と、共に。
 ああ、眩暈がする。
 凄まじい情報の奔流に、僕の意識が耐えられなくなりそうになったとき、また違う声が、聴こえた。

『よし、決めた』

 遠のきそうだった意識が一瞬にして覚醒する。耳に覚えのある、この声……!

『----俺がお前のヒーローになってやる』

 その瞬間、見慣れた親友の姿が陽炎のように浮かんだ。

「しょう、じ……」




「なぁ篁。次に会ったら俺のこと名前で呼んでくれ」
「……」

 僕は物凄く嫌そうな表情をしてみせるけど、東海林にはまったく通じてないみたいだった。

「約束だぜ。まじで名前で呼べよ?」

 観念して僕は渋々口を開く。決して了承したわけじゃない。

「次って、いつ」

 そう訊くと、やけに大人びた表情で東海林は笑った。

「『次』は『次』だよ」




 ----東海林。僕は気付いたんだ。
 僕はあんなに世界を----君のいた世界さえも、捨てたくてたまらなかったのに。
 要らないと、捨てたのに。
 さよならを告げたその口で、もう一度世界を望むんだ。

「僕の世界を、返せ」
『我の名は……』

 引き留めるように響いた声は、最後まで聞き取ることが出来なかった。



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