3 

「あれ? 留守……どうしよう。携帯忘れてきちゃった」

明日仕事が休みだという事でそれなら部屋でゆっくり過ごしましょうと誘われてやってきた、敬助さんの部屋の前。

インターホンを押しても応答がなく、こんな時に限って携帯不携帯。ああもうっ、連絡とれないじゃない。

思わず自分に苛立って溜め息をついたけれど、約束の時間より早く着いたのだから仕方がない。

諦めてドアを背にもたれかかって待つ体勢でいると、エレベーターの方から土方先生が歩いてきた。

彼の姿を見て一瞬ドキッとした自分に気付き、会わなければ忘れられたかもしれない男性をまだ恋人の義弟だと受け入れきれていない事もあって、ぎこちなく会釈した。

「今晩は」

「山南さんが何度も電話掛けてたぞ。急な用で遅れるから、部屋の前に来ていたら俺の所で待たせて欲しいって頼まれた」

立ち止まらず私の前を通り過ぎて隣りの部屋の前まで行った土方先生が、鍵を開けながら招きよせた手につられ、数歩歩いたところで躊躇って足を止めた。

入って……いいのかな。一人暮らしの男性の部屋。彼が敬助さんの義弟だとわかっていても、他意なく頼まれたことをしようとしているだけだとしても。

彼は……土方先生と私は…………。


迷ったまま、少し開いたドアの隙間から零れる暗がりをみつめていると、彼は大きく息を吐いてからこちらを見て頷いた。

「考えてることは分かるが、お前を廊下に突っ立ったままにしとけねぇだろ。夜はまだ冷える。いいから早く入れ」

半身がドアの中に消え、玄関の明かりがついて隙間から廊下へ光の筋がこぼれ出た。

確かに、羽織っているスプリングコートは日中の移動には丁度よかったけれど、夜に屋外で人を待つには薄過ぎる。

敬助さん自身が頼んだことなんだし、変に警戒し続けていたら土方先生だって不快で苛立ってくるだろう。

「すみません、それじゃあ山南先生が戻るまでお願いします」

ドアが閉まらないよう押さえている土方先生に近づき、その玄関に足を踏み入れた。

玄関マットもスリッパもなく、パンスト一枚の足にフローリングが冷たく感じる。

彼はすぐにリビングのエアコンを入れ、私のコートを壁のフックへ吊るした。

「悪いが先に着替えさせてくれ」

言いながらもうネクタイを緩め始めている。

土方先生が寝室に消え、急に肩に食い込んだかばんの重さを感じて床へ下ろした。

茶色い皮のバッグは仕事用で、もう一つ、布の大きなトート型バッグにはお泊りセットと明日の着替えが入っている。

彼の部屋に来るのは今日が三度目で、泊まるのは初めてだ。

充電器は入れてきたのに肝心の携帯を忘れるなんて。後で土方先生に電話を借りて、敬助さんに連絡しなきゃ。

壁の時計を見ると針は午後七時半を指していた。

「おなか空いちゃったな」

採点しながらサンドイッチを摘んでから、六時間以上経っている。

昨日のうちに敬助さんがサラダの材料とお肉を買ってくれているはずで、夕飯のおかずは切って焼くだけなのですぐ出来るからいいとして、ご飯はどうしよう。

炊いてあるのかな。取り留めのない事を考え、まだ席を勧められていない私はリビングの真ん中でぼんやりと立っていた。


「悪い、適当に座ってくれ。っとその前に、山南さんに電話しろ」

こっちの方が早い、と渡された土方さんの携帯電話はもう発信音が鳴っていた。ディスプレイには山南敬助の名前が表示されている。

すぐ電話に出た彼へ到着を報告すると、先に謝罪の言葉が出て、次にあと一時間かかりそうだと申し訳なさそうな声が受話口から届いた。

「分かりました。じゃあ後で。……早く帰ってきてくださいね」

借りた携帯を返して、勧められるまま革張りのソファーに腰を下ろす。

柔らかい座面が深く沈みこみ、反動で少しずり上がってしまったスカートから出た膝頭を隠すように、そこへ両手を乗せた。

やっぱり落ち着かない。仕方ないわよ、相手が相手だもの。そう自分を慰めた。

土方さんは私が敬助さんの恋人として現れたことをどう思っているんだろう。聞きたくもあり、知りたくない気もする。

聞くなら今だろう。そう思って勇気を出して口を開きかけた時、彼の方から話しかけてきた。


「元気だったか」

「はい」

「まさか山南さんがお前を連れてくるとはな……驚いた」

「私も驚きました」

すこし間が空いた。お互い切り出したい話題は同じだろうが、それをどう話せばいいか分からず言葉を選んでいるうちに部屋は沈黙で満たされた。

その空気を変えて最初に一歩踏み込んだのは、土方先生だった。



「すまなかった」


今更だが、他に相応しい言葉がなかった。

熱心で明るく、生徒からの評判も教師連中の評価も高かった秋吉に、ほぼ付きっきりだった実習期間。

加えて若く美人となれば、そういった対象として見ちまうのは仕方ないとして。

実際に手を出し、一晩の相手だと受け取られる言葉を敢えて言ったのは、他ならぬ自分だ。

触れたかった。抱きたかった。

憧れか恋かは分からないが、俺に好意を寄せている手ごたえは感じていた。……同じ気持ちだった。

一番好きだったのは、人が見てない所でも手を抜かないこいつの姿勢だ。相手を見て態度を変えない所も好みだ。

こいつが欲しかった。だからホテルで抱いた夜……朝まで何度も逡巡した。この先どうするか。

このまま恋人にしちまえ、という自分の心の声を押し止めたのは――今も変わっていないが――時間に追われるこの生活だった。

教頭としての実務に加えて教科も担当している。マクロな視点で学校運営を考えつつ、同時に生徒個人個人に対する指導も大事な仕事で。

起きてから寝るまでずっと仕事の事を考えている人間に、恋人と戯れる余裕はない。女の方も寂しさを持て余すだろう。

だから諦めた。手放すのが思いやりだと思い込もうとした。それなのに、秋吉はまた現れちまった。

今目の前に逃がした魚が別の男の……山南さんの交際相手として座っているのが、本音をぶちまければ理不尽だろうが身勝手だろうが、悔しいし腹が立つ。

その苛立ちを堪えて、一言謝罪した。が、返ってきたのは違う反応だった。


「謝るのは……ずるいでしょ」

「ずるい?」

「謝罪を受け入れたら関係が決まっちゃうじゃないですか。加害者と……被害者? 惨めな位置に女性を据えるなんて、ひどいですよ」

一美は加害者で土方を指差し、被害者で自分の胸を指した。

「馬鹿な事したなって落ち込みましたよ、あの流れで期待しないのは難しいですもん」

好きだったし、という言葉は無理に飲み込んだ。今言ってどうなるわけでもない言葉で、余計に事態をややこしくするのは避けたい。

ここ数年で一番成長したのはこの部分だろう。言う前に考え、言葉を選ぶようになった。

それでも表情を抑えきれているか自信がなくて、土方先生から意識的に目を逸らしてしまう。話題が話題だもの、目を見て話すのはキツい。

「もうあれは無かったことにしましょう。そうすれば土方先生も敬助さんも私も、誰も傷つかな……い――――土方先生?」

膝に添えた自分の手の甲に影が落ち、次の瞬間、ソファーが軋んだ。

顎を掴まれた感触とほとんど同時に、唇が重なった。




[ 3/8 ]
 


←お話一覧に戻る


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -