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食事も美味しい駅前の喫茶店では、24、5歳ぐらいの女性が落ち着かなげに何度も店の入り口を見ていた。

店員が近寄って彼女の前に置かれたグラスに水を足す。これで三回目だ。

メニューは待っている間に隅々まで見てドリアにしようと決めていたが、隣の席に運ばれてきたミックスフライも美味しそうで、どっちがいいか迷っていた。

また店のドアが開き、何度もそちらを見ていた彼女はやっと確認した待ち人に向けて手を振り、嬉しそうに自分の居場所を伝えた。

後ろにいるのが義弟さんよね。……といっても、私より三つ上だけど。

気になっていた人物の顔をよく見ようと、恋人からそちらへ視線を移した瞬間。

心臓の拍動が乱れた。

「敬助さん、こちらは……」

まさかという思いで、席に到着した彼の方へ確認するように尋ねると、事情を知らない敬助さんは「義弟の歳三です」といつも通りの穏やかな声で彼を紹介した。

「土方くん、こちらが私とお付き合いしている秋吉一美さんです。三年前に君が指導した実習生ですから、よく知っていると思いますが――」

会話が耳に入ってこない。動悸がして、キンと脳に響く耳鳴りが店内の雑音すら掻き消した。

社会人の習性だけで反射的に席を立って会釈し、座り直してすぐグラスの水を飲んだ。気持ちを落ち着ける為に。

教育実習で指導教官だった土方先生が、まさか敬助さんの義理の弟だったなんて。

そんな話は二人のどちらからも聞いたことがなかった。第一、苗字が違う。

でも二人で担いでいるわけもなく、敬助さんの義弟が土方先生だという事は、紛れも無い事実のようだった。

頭の中がグルグルする。

ただ一つ見つけた答えは……「言えない。絶対にばれちゃいけない」というものだった。

実習期間中に土方先生につまみ食いされましただなんて、そんな過去。

敬助さんに知られるわけにはいかない。


「一美、緊張してますか? 担当教官で教頭の土方くんを前にしては無理もないでしょうが、彼は弟でもあります。家も隣同士ですし、出来れば仲良くして欲しいですね」

「いえ、その、はい。……土方先生、そういう事なので……これからどうぞよろしくお願いします」

「っ、ああ。よろしく。その、なんだ。おめでとう」

よく分からない祝福の言葉を貰ってぺこりとお辞儀し、彼の顔を恐る恐る覗き込むと、まだ動揺は治まっていないものの落ち着きを取り戻そうとしている様子が伺えた。

隣りに座っている敬助さんは……なんだか楽しそう。どうも状況を面白がっている節が見えて。

驚かせるために敢えて内緒にしていたんだと分かった。

「処理しきれない、という顔をしていますよ。お互い知らない仲じゃないんですから、そうかしこまらず実習時代の思い出話でもしてはどうですか」

あります、思い出なら色々。知らない仲でもないですが、今ここで思い出すべき記憶じゃないんです。

……なんて言えるわけがない。


遅くまで職員室に二人きりで残っていた日にキスされて。実習の最終日に送別会を開いてもらった帰り、タクシーで向かった先はラブホだった。

お酒も入っていたし、厳しかった土方先生に「よく頑張ったな」と最後の最後で褒められ、一気に盛り上がった気分のままテイクアウトされてしまった。

翌朝別れ際に「じゃあ元気で」と言われ、それは脳内で「この一回だけだ」という確認の意味に変換された。

そっか。これから何かが始まるわけじゃなかったんだ。……そう、だったのか。

酔いが醒めて我に返った気分だった。

期待していた自分、恋かもしれないと感じた気持ち、それらが見事に突き返されて。

惨めな気分になるのだけはよそう、大人にはこういう事もあるんだと無理やり自分を納得させた。

携帯に登録していた彼の電話番号とメアドは、帰りの電車の中で消去した。

その人が恋人の義弟として目の前に座っているというこの状況は、私の脳のキャパシティーを越えている。

ひとまずの最善策。記憶の検索はやめて、恋人の身内に紹介してもらえた彼女の役に徹する事にした。


「今はどこに勤めてんだ」

当時と変わらない整った顔で、何もなかったように話しかける土方先生は、やっぱり大人だ。

私もほろ苦い経験のお陰で少しは大人になりましたよ。現実は甘くないって教えてくれてありがとうございました。

心の中で皮肉たっぷりに呟き、気を取り直して同じように好感度の上がりそうな表情を続ける。

「個別指導塾で講師をやってます。あの、お二人はいつからご兄弟に?」

おかしな質問で変な日本語だと思いつつ、どうしても気になるので聞いてみれば、六年目だという。

「よそで言うなよ、学校じゃ公表してねぇ事だ」

「一美は軽はずみにあれこれ口外する子ではありませんよ。もう指導教官ではないんですから、あまり厳しくしないでやってください」

隣りに座っている敬助さんが私を庇うように優しい目を向けてきて、いつも通りの穏やかな口調に安心が広がった。

書店で再会し、お茶を飲んで携帯電話の番号を交換した時は、まさか付き合うことになるとは思わなかったけれど。

仕事の相談に乗ってもらっているうちに、同世代の男性では太刀打ちできない色々な豊かさに惹かれて始まった交際はまだ三ヶ月。

この前のデートで初めて部屋に招かれ、それなりの覚悟をしていた通りの関係になった。

体はまだ一週間前の手の感触を覚えていて、自分の顔が赤らむのを感じながら、斜め上にある彼の顔を見返しせば。

何が可笑しいのか、彼は私を見てクスリと小さく笑った。

土方さんは決して私との間に起きた事をバラしはしない。なら、私が子供じみた不要な正義感さえ芽生えさせなければ、誰も傷つかない。

沈黙は金、知らぬが花。ゆっくりと育ち始めている幸せが、今は何よりも大切だ。

恋人らしくアイコンタクトで笑い返すと、彼はまた小さく笑んだ。


そんな二人を見て、土方が形容しがたい小さな苛立ちを感じていた事は、一美はおろか、当の本人ですらまだ気付いていなかった。






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