138 幻影
新選組の一行が掻き集めた兵を率いて出陣し、空しく不戦敗を喫したのと丁度同じ頃。
江戸市中では連日市井の民を脅かす辻斬りの蛮行を止めようと、羅刹隊が深夜の巡察を重ねていた。
緩やかに春を迎えたこちらでは夜風も優しく、あちこちに植えられた木々は新芽や花芽を綻ばせている。
だがそんな穏やかな風景を切り裂くように、今夜も入り組んだ路地の奥で犠牲者の断末魔が響き渡った。
「あっちです! クッ……間に合いませんでしたね」
「山南さん、反対側から入って挟み撃ちにすっから、裏手に回ってくれ!」
山南と平助は顔に焦燥を滲ませながら、今夜こそは犯人――恐らくは羅刹――を捕まえようと、足を急がせた。
二手に分かれて小路に入れば、むせ返るような血の匂いと共に、何かを食む嫌な音がした。
白い髪をざんばらに振り乱し、今しがた絶命したであろう骸に覆い被さる男が一人。
遠目には亡くなった者に縋っているようにも見えるが、噛み、啜り、飲み下す音でその異様さを伝えている。
血の匂いに当てられないよう隊士達に鼻栓をさせているが、こちらも羅刹を率いている。
何かの拍子で狂った者に背後から切りかかられぬよう、味方からも敵からも間合いを取りながら。
抜き身の刀を握り締め、亡骸を貪る男へと距離を詰めていった。
隊士達はそのおぞましい姿に明日の自分を重ねて険しく顔を顰め、耐える強さを持たなかった男を睨みつける。
正気を手放すまいともがく自分達の努力を嘲笑うように、男は顔を上げてニタリと笑った。
「お前らも、食うか?」
春の夜空はやや霞み、淡い月の光が朧に男の顔を照らす。
夜目に慣れた羅刹隊の一行は、男の目に赤い色と狂気を確認した。
「ざけんなっ! お前なんかにこいつらの覚悟を散らせやしねぇっ!! んなもん食ってねぇで成仏しやがれっ!!」
平助は狂った男の言葉にカッとなり、刀を振り上げて踊りかかった。
浪士らしき風体の羅刹はその能力を生かして飛び上がり、難なく切っ先を振り切る。
だが、こちらは訓練を積んだ新選組羅刹隊。敵を追い込み数に任せ殲滅するその素早さでは、どこの組織にも劣らない。
平助の一刀を避けて飛び上がった所を、瞬時に隊士の刀が切り込んだ。
一刀で心臓を狙うのは難しいが、一太刀入れば後は数で勝る利を生かし、次々と羅刹隊士の刀が男を貫いてゆく。
苦悶の中にもどこか愉悦を含みながら地に伏した男を数名がかりで押さえつけ、命を摘む前にその出元を問い詰めた。
「貴方の咎は許しがたいが、狂気の根源は変若水。……誰が貴方に飲ませたのですか? 言いなさいっ!!」
山南は多くの狂気を弔ってきた者として、僅かに情けをかけながら男の側にしゃがみ込んだ。
きっとその瞳に人としての何かを見たのだろう。一瞬男の中で狂気が静まり、救いを求める呻き声を漏らした。
「俺は……俺はっ……こ、んな――――はぐぁっっ!!」
最期の言葉を言いかける、その口元を見て静かに答えを待っていたその僅かな時を切り裂き。
軽く何かが爆ぜる音と共に男の体が一度ビクンと跳ね……呆気なく瞳から色が奪われた。
山南ははっとして顔を上げ、打ち込まれた銃弾の出元に目線を走らせる。
凶行の餌食にならぬよう堅く戸口を閉め切った長屋の屋根で、小さな笑い声とともに何者かがこちらを眺めていた。
「誰だっっ!!」
平助は狂った男に止めを刺したその影に向かって刀を構え、人の心を逆なでするような笑い声に歯噛みした。
こいつだってきっと、好きでこんなになったわけじゃねぇんだ。
何で笑ってんだよ、お前誰だよっ!
楽しそうなのにぞっとする程冷たい嘲笑が小路に降り注ぐ。
黒衣の者はまるで観劇の幕が下りて立ち上がる客のように、屋根の上で背を伸ばしてこちらを見下ろした。
「中々面白かったよ。でももう少し遊べると思ったのに案外呆気なかったな。
今度はもう少し手応えのある奴を寄越すから、せいぜい手の内で踊って……俺を楽しませてくれ。
ねぇ、あんた達……この顔知ってる? 教えてくれたら手加減して……あげなくもない」
若い声、男とも女ともつかないその声はどこかで聞いた覚えがあるような気もする。
男女の判別が難しい背丈で立つその姿を、丁度雲間から覗いた月が横から照らした。
「千……鶴? あ……」
柔らかな光に晒された顔を見て、思わず平助はよく見知った優しい彼女の名前を口にした。
口にしてからその失態に気付き、慌てて口を噤む。
だが既に遅く。
静まりかえった小路では呟きを拾うことも容易で、平助は後悔してもし切れなかった。
黒衣の者は無言のまま一堂を見渡し、何の返事もせず音も立てず……姿を消した。
本当に一瞬だった。屋根を踏む音すら聞こえなかったし、駆けていく足音を辿ろうにも、何もなかった。
呆気ない終幕に、誰もが言葉を失ったまま屋根を見つめた。
何か幻を見せられたような、そんな気分だった。
「山南さん、あれって――」
千鶴じゃないよな? でも千鶴にそっくりだった。
そんな平助の心を読むように、山南は軽く溜息をついて頷いた。
「……驚きました。私も一瞬、彼女かと。ですがありえませんね、今頃甲府に着いている頃です。
鬼とはいえ、雪村君にここまで駆け戻る体力も、そんな能力もないでしょう。
ならあれは……ふぅ、確かなことは何も分からない。ひとまず屯所に戻るとしましょうか」
答えを探しあぐねるように首を振り、山南は絶命した男を見下ろした。
白かった髪は戻り、狂気の痕跡は血の海と二つの哀れな骸のみ。
苦しみから解放される間際に見た、人としての彼を思い出しながら、その遺体に背を向けて歩き出す。
甲府城に入ったと連絡があるまで、或いは敗走して戻るまで、進軍に付いて行った優しい小姓の安否も確認しようがない。
山南は、歩みに合わせて微かに揺れる左腕を押さえながら、平助達と共に江戸の夜道を帰って行った。
朧月夜の惨劇は、不可解な疑問を残したままその幕を閉じた。
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