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ありがとう、私、本当に幸せ。一はやっぱり優しい人ね。
理性的な貴方が好き。そういう貴方をずっと好きだった。最後にまた逢えてよかった。
今夜の事、いい思い出にする。私、きっと幸せになるわ。


再びの絶望。かつて感じたことのない苦しさ。
俺には菊乃が解らない。
だが菊乃の方も俺を何も解ってはいない。
女とはやはり簡単に男の上に新しい男を上書きするものなのだな。簡単に身を任せ、男の心を蹂躙し滅茶苦茶に破壊して、罪悪感もなしに塵のように呆気なく簡単に棄て去る。
母と何ら変わりない、穢れた女。
あんたはただの穢れた女だ。
そうだ、昔からあんたが愛しくて憎かった。俺はあんたに壊されていく、菊乃。





菊乃を抱いたあの夜、固辞する彼女をタクシーに乗せ、通り道だからと彼女の家へと送って行った。
臓腑が捩じ切れるような憎しみと捨て切れない愛惜。相反する二つの感情に翻弄されながらも、未練から俺はすぐには離れられなかった。
車中では互いに口を開くこともせず、彼女が運転手に告げた住所が頭の中に木霊し続けていた。移り変わっていく深夜の窓外を眺め遣る俺の眼に、徐々に見知った景色が映り始める。

「ここで、降ろしてください」

彼女が遠慮がちに礼を口にして降り立ったそこは、俺のよく知る場所だった。その角を曲がればすぐに見える筈だ。俺が年に一度ほど重い足を運ぶ、母の住むあの家が。
些細な事と気にも留めずに忘れていたが今年の正月に、結婚が決まったと聞いていたことを思い起こす。俺が寄り付かない理由を知ってか知らずか母はこう言った。

“一にも是非出席して欲しいと歳三さんが言っていたわ。私達、家族なんですもの。歳三さんにお嫁さんも来ることだし、この機会に、ね?”

頭の中で何かの回線が繋がった。俺の唇がゆっくりと弧を描いていく。家族だと?
笑わせるな。
開かれたタクシーのドアの外から、腰を屈め此方を覗き込む菊乃は、ホテルを出て以来初めて俺の顔を真っ直ぐに見て、謝意と別れの言葉を告げる。

「一、ありがとう。元気で」

「ああ、あんたも」

刹那菊乃の瞳が俄かに大きく見開かれた。彼女のこのような表情も初めて見るものだ。腹の底から歪んだ笑いが抑えようもなくせり上がる。俺は今一体どのような貌をしているのだろうか。
俺が笑うのはそれ程に珍しいか。あんたは何故そのように怯えた目で俺を見る?
菊乃の後ろ姿はやはり美しかった。角の向こうに彼女が消えたのを見計らい「出してくれ」と言えば車は静かに走り出す。想像した通りに、たった今閉じられたばかりの玄関ドアの内側に明かりが灯るのを、玄関前を通過する車の窓から確認する。緩む頬をそのままに独り言ちる。
俺はあんたを逃す気はない。





鏡の前でネクタイを締め直しクリーニングから戻ったばかりの礼服に袖を通す。相応の金額を収めた祝儀袋を内ポケットに入れ、テーブルに置かれていたカードをもう一度取り上げた。
正月に促された時は口を濁したが、出席する旨を改めて伝えれば、母も”義父”も”義兄”も大層喜んでいたようだ。しかし事前の家族紹介を兼ねた食事会は仕事の為都合がつかぬことから丁重に辞退した。
カードを手にしたまま大きな窓ガラスに近づき外に視線をやれば梅雨時だと言うのによく晴れて、この日結婚の誓いを立てる二人を祝福するかのように初夏の空は青く澄み渡っている。
招待状の案内には、受け付けが十時よりと記載されていた。時間を確認し用済みになったそれを再びテーブルに無造作に放り投げ、少し早いが玄関に向かい磨き立てられた革靴に足を入れた。
郊外にある其処はガーデンチャペルを備えた挙式専用の施設のようで、併設されたホテルのような建物はどこか玩具のように安っぽく豪華で、その癖荘厳な様を演出しているのが滑稽だ。
親族が集うロビーのサロンを素通りし、迷わずに目的の場所へと足を進める。

「歳三さん?」

鍵のかかっていない白いドアを開ければ純白のドレスを身に纏った女が、この上なく幸せそうな笑顔でこちらを振り返った。
綺麗に化粧を施された美しい花嫁の頬は一瞬にして強張り、信じられぬものを捉えたその瞳が驚愕に見開かれる。そういう貌にも色気のある女だ。
あの頃に比べ随分と表情が豊かになったものだ。俺はずっと知らなかった菊乃の顔を幾つも見つけ、薄笑いを浮かべる。

「…どう、して、ここに…、」

「結婚おめでとう。”義姉さん”」

「……ねえ、さん…?」

無垢な衣装に包まれていても所詮透けて見える。そのようなドレス一つ着たところで、あんたの本性が隠せるわけなどないだろう。実に滑稽だ。あんたは穢れた女だ。されば天国から地獄へと突き落とされても文句など言えまい。

「こうして会うのは初めてか。土方歳三は俺の”義兄”だ」

菊乃はやはり知らなかったようだ。一夜限りの快楽の相手がまさか、自分の夫となる男の”義弟”であったなどとは。青褪めた菊乃の表情が驚愕から恐怖へと揺れ動く。
だが俺は何もこの挙式をぶち壊しに来たというわけではない。
俺は菊乃から三メートル程も離れたドアを背に立っていたが、此処から見ても彼女が全身を小刻みに震わせているのがよく解る。「では、後ほど、」と踵を返せば大きな衣擦れの音が聞こえ、ドアノブに手を掛けたまま半分だけ首を捻じって見遣れば、彼女はその場に蹲るように崩れ落ちていた。余程驚いたのだろう。今だけはあんたの心が手に取るように理解出来る。口端を上げてあの夜と同じ言葉を投げてやる。

「幸せになるといい。”義姉さん”」

もう一方の目的のドアをノックし、応えた声を確かめドアを開ければ、端麗な男が面映ゆげに俺を見た。眉間に刻まれた皺はそのままに、俺を認めると僅かに口角を上げ、些か上擦った声を出すのが可笑しい。

「斎藤、来てくれたのか」

「おめでとうございます、土方さん」

「ああ、忙しいとこを、わざわざ悪かったな。しかしこの恰好は落ち着かなくていけねえ」

「よく似合っています」

そうか?と俺の顔を一瞥してから自身の白いタキシードを見下ろして、彼はいつもの苦虫を噛み潰したような顔をした。だがその瞳は隠しきれない幸せを滲ませている。
俺の頬には薄笑いが張り付いたままだ。

「美しい花嫁はさぞかし土方さんを満足させてくれるのでしょうね」

「…ん?」

「幸せになってください」

「ああ、ありがとうな」

「なれるものならば」

「…あ?」

土方さんが息を飲む気配がした。徐々に笑いを消して俺をまじまじと見返す瞳が、怪訝そうに細められ、その声が低められる。

「何言ってんだ、お前、なんか、あったか?具合でも悪いんじゃねえか?」

「問題ありません。体調は至って良好です」

俺は数歩足を進め”義兄”の脇に立つ。

「”義兄さん”」

”義兄”の耳元に囁いてやる。

「”義姉さん”はベッドの上では本当にいい声で啼く」

”義兄”の顔が歪む。

背後でドアが閉じるなり、俺は首元のネクタイを引き抜いた。ぐしゃりと丸めて上着のポケットに捻じ込み、装飾過多な廊下に靴音を立て、真っ直ぐに建物の出口へと向かう。



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