禍ノ子
 兄弟 / 頼


 放課後になり、頼は初めてケージと反対方面のバスに乗って、花街のあるD区に来た。
 アムネジアは東西に伸びた形の島だ。東端にケージがあり、一般居住区の繁華街は反対側の西端に位置している。大通りで二つに分断されたその地区は、北側をD区と呼び、南側をE区と呼んだ。
 西洋風の明るく洒落た建物が立ち並ぶほうはE区で、豪とよく出掛けることもあるので頼も知っている。今夜行くはずだったレストランもこの地区だ。
 それに対して、反対側のD区は今思い返してもあまり記憶がない。夏と冬に屋台が並ぶお祭りに来たくらいだろうか。特別気にしたことはなかったが、今思い返せば不思議だった。
 頼は太陽に鈍く光る瓦葺きの屋根や、藍に染め抜かれた暖簾がはためく店の前を、感嘆の溜息をついて通り過ぎた。

「一ノ瀬君、珍しいかい?」

 先を歩く咲人に柔らかく問われて、頼は素直に頷いた。その横で煙草を吸っていた虎太が、呆れて大げさに肩をすくめる。彼は授業終了と共にとんできて、誘ってもいないのに着いてきた。

 花街の入り口は、立派な湯屋を通り過ぎた先の路地にあった。赤い門の両端にはまだ火の入っていない大きな提灯が一つずつ下がり、ピンクや白の華やかなしだれ飾りがそこここに垂れ下がっている。その奥には狭い道の両側にずらりと店が並んでいるのが見えた。
 緩やかな下り坂になったそこを進むと、最初こそ目立たなかったが、次第に客引きの白い手が伸びてくるようになった。店子の女性たちは衿の開いた和服を着て、鮮やかな紅をさしている。中には自分と同い年くらいの少女もいた。
 頼の前を歩く咲人は、何でもない様子で道の真ん中をすいすいと進んだ。客引きの声に紛れて、「咲ちゃんお帰り」というのも混じって聞こえるので、彼の話は本当だったらしい。虎太も意外と適当にあしらっているのを見ると、何度か来たことがあるみたいだった。

「コタ、姉さんが久しぶりに会いたがっていたよ。今の姿を見たら、たぶん失神するかもしれないけれど」
「え? 格好よくて?」

 親しげに雑談を交わす虎太と咲人を、頼は不思議になって見つめた。

「二人は、友達だったの?」
「ただの腐れ縁だよ」

 咲人は即座に涼しい顔で否定したが、“コタ”と呼んだ声には長年の付き合いとそこから来る親愛の情が滲んでいた。
 意外な組合せだな、と前に並ぶ二人の背中を頼は黙って見つめた。

 咲人の家は、花街の奥に楚々と立つ町家造りの家屋だった。
 苔生した丸い石が門代わりに置かれた玄関を横切ると、咲人は正体不明の鉢植えが並ぶ薄暗い庭を通って、二人を裏手へ案内した。木格子のはまった窓からは、絶え間なく沸かされている湯と石鹸、それから微かな白粉の香りが漂ってくる。

「ここは店子の宿舎なんだ。それで表玄関は嫌だろうからって、姉さんが気を使って作ってくれた。別に俺は、入れればどこからでも良かったんだけれど」

 そう話す咲人の頬は、穏やかに緩んで見えた。
『白江』と表札のかけられた玄関は、表の明るい喧騒とは縁遠く、そこだけ切り離されたようにひっそりと静まっていた。開け放たれた薄暗い土間の奥から「お帰り」と声がかかる。

「姉さん、友達が来たからお茶を入れてくれ」
「あら、虎太じゃない。あんた随分はじけてるわね、耳朶が千切れそうよ」

 姉さんと呼ばれた女性は、虎太の姿を見るなりそこから飛び出してきた。腰に結んだエプロンで濡れた手を拭き、奥にいた頼にも気が付くと「月子です」と控えめに微笑む。その表情が咲人に似ていると、頼は思った。一方の虎太は罰が悪そうに新しい煙草に火をつけると「早く上がろうぜ」と自分の家でもないのに二人を急かした。

「お客さんがくれた煉切が、まだあったと思うんだけれど」
「ああ、あれね。丁度三つあるから二階へ持っていってあげる」

 女性というのは、ころころと話題を変えてもそれに不思議なほど順応する。月子も例外でなく、ぽんと手を叩くと玉すだれで遮られた台所へ消えていった。
 頼たちはそこへ靴を揃えて脱ぎ、急こう配の狭い階段をギシギシと上がった。二階の廊下にはいくつか部屋が並んでいたが、咲人は一番手前のドアを開けた。
 そこは擦り切れた畳が敷かれた四畳半の和室で、隅には畳まれた花柄の布団と、栞の挟まった文庫本が数冊置いてあった。
 これが咲人の部屋なのか、と頼は衝撃を受けた。まるで薔薇の咲く洋館にでも住んでいそうなイメージを持っていたが、実際はそれとかけ離れた場所で暮らす彼に、不思議な親しみやすさと得体の知れなさを一遍に感じたのだ。
 風を入れるために咲人が細く開けた窓から、表通りの喧騒が漏れてくる。頼と虎太が畳に座ると、それだけで部屋はいっぱいになってしまった。
 程なくして、月子が熱い茶と美しい煉切を乗せた盆を運んできた。それを机代わりに使っているらしい窓の手すりに乗せると「男三人だと、さすがに狭いなぁ」と咲人は困ったように笑った。

 頼と虎太が程よい甘さの煉切に舌鼓を打っている間、咲人は赤い縮緬の布で遮られた押入れを探っていた。しばらくして「あったあった」と顔を出した彼の白い掌には、四角に折りたたまれた薬包紙が乗っていた。

「最初に確認するけれど、一ノ瀬君は女役で間違いないよね」

 聞きなれない言葉に首を傾げると、虎太に「突っ込まれるほうだよ」と説明される。ああ、もう本題に入ったのかと思わず赤面しながら、こくこくと頷いた。

「もちろん男に膣なんてない。その代わりに使える孔はどこだか分かる?」
「ケツの穴だな」

 窓際で煙草を吸っていた虎太が、事も無げに正解を弾く。咲人は目を細めてデリカシーの欠片もない男を薄く睨んだ。

「男には前立腺っていうのがあって、そこを擦られると自分でコントロールが出来なくなるほど気持ちがいいんだ。まずは大事な手順として、自分で尻の中をよく洗うこと。いろんな方法があるけれど、シャワーヘッドをとってそれを直接突っ込むのが手軽でおすすめだ」

 具体的かつ壮絶な光景を連想させる説明に、頼は思考が停止した。ハードルは予想以上に高い。ケージの管制塔よりも高い。夜空に飛ぶ戦闘機にくっついている赤いランプの辺りだ。
 しかしその先に何としてもたどり着きたい頼は、真剣になって続きを聞いた。

「腹の中の物を出したら、それが透明になるまで繰り返す。それが終わったら、この薬を湯で溶いたのを尻の中に塗りつけてベッドに忍び込めば、後は相手がどうにかしてくれるよ。ね、簡単だろう」

 咲人は、薄い薬包紙の包みをそっと頼に手渡した。ちっとも簡単では無さそうだと思いながら、頼は掌に乗せられた得体の知れないそれをじっと眺めた。一見ただの粉薬だけれど、少し怖い。

「これは弛緩剤と軽い媚薬が混ざったものだ。心配しなくても安全だから大丈夫だよ。最初に破瓜する時の痛みも悦がるほどの快楽に代わって、」
「おい、随分詳しいけれど、まさか咲人も店に出ていないよな」

 それまで黙って聞いていた虎太が、いつになく重たい調子で話を中断した。

「……え? まさか」

 一瞬の沈黙の後に否定した咲人の白い横顔に、嘘の片鱗は見えない。けれど、この少年は涼しい顔をして偽りを口にすることを、もう頼は知っていた。

 入り口の門まで見送ってくれた咲人と別れたのは、花街の提灯に火が入り、雑踏で温まった風に酒の匂いが混じり始めた夕暮れだった。
 門のところで白い手をひらひらと振る咲人の姿が、花街のぼんやりとした灯りに包まれてしまうまで、頼は何度も振り返った。その隣で珍しく押し黙っていた虎太は、思い出したように煙草に火をつけると、再び細い煙を作り始めた。
 咲人にもらった薬包紙が入った鞄を胸に抱えた頼は、今日の出来事を頭の中で反芻した。その不思議な余韻は、何か言葉を発すれば途端に萎んでしまうような気がして、頼はしばらく無言で虎太の隣を歩いた。
 そうして二人は「また明日」とそれぞれの帰路についた。


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