贖罪ノ子
贖罪ノ子 / 伊織
人気のないテラスは、しんと静まり返っている。
また懲りずに部屋を抜け出した伊織は、ひらりとベンチに腰掛けてみた。
今夜は、誰もいない。
「あ〜あ……残念」
またあの男に会えるかもと思っていたけれど、空振りだ。
がっかりしながらベンチの上に転がると、藍紺に沈む夜空をぼんやり見上げた。
静かで控えめな月光は、伊織に降り注ぐ。白花の細い髪は、砕いた真珠をまぶしたように艶やかな煌めきを放った。
月光浴は不思議だ。
温かいシャワーを浴びたり、清潔なリネンに包まれるよりもずっと濃い充足感がある。
伊織は深く溜息を吐くと、うっとりと薔薇の瞳を開けた。
月の横には、藍と蜜が混ざり合った美しい星。
あれはなんていう名前なのだろう。気になって何度か宏夢に聞いたことはあったが、一度も教えてくれなかった。
歌が聞こえるんだ。小さすぎて聞き取れないけれど、とても柔らかな声。
月にはウサギが住んでいると絵本で読んでからは、あの星に何が住んでいるのか空想するのが好きだった。
歌の上手な人魚か鳥乙女が住んでいたら、素敵なんだけれど。
「どこの天使が舞い降りたのかと思ったよ」
ふいに暗闇から呼ばれて、思わずびくんと体を揺らす。
「……えっ、誰?」
「探したよ、伊織」
「ケイティー!」
テラスの入り口に姿を表したのは、調査班副長の美堂ケイトだった。
見慣れた深緑の軍服、襟元には重たげな階級章。太陽のようなブロンドを指でかきあげながら、完璧な微笑を浮かべている。
薄いブルーの瞳が金色の睫毛に縁取られているケイトは、まるで本物の王子様のようで伊織はいつも憧れていた。
「美味しいケーキが部屋にあるんだ。一人じゃ食べきれないから、伊織も手伝ってくれないか?」
「うんっ、いいよ!」
「いい子だね、伊織」
大きな掌に髪をなでられて、素直にベンチを降りる。
ケイトはいつもオリエンタルで官能的な香水をつけているから、すごくいい匂いがした。
「いつ見ても、君の瞳はスカーレットの赤だ」
「スカーレット?」
ケイトの冷たい指が、伊織の眦を愛しげになぞった。その爪が濡れた瞳の縁にかかり、慌てて目をつむる。
「そうだよ。もし私が君の名付け親なら、スカーレットかビアンカだ」
「っ……び、ビアンカ?」
「白を意味する言葉だ。君の素晴らしい髪とスキンに敬愛の意を込めてね」
「で、でも、伊織は自分の名前が好き」
だって宏夢君がつけてくれたから。ビアンカなんて、女の子みたいで嫌だと唇を尖らすと、ケイトは笑いながら伊織を抱き上げた。
「冗談だよ、そんなに可愛い顔をするな。さあ、行こう」
軽々と自分を支えるケイトの腕は、がっしりとして逞しい。大人の男と明らかな力の差を感じた伊織は、そこで初めて微かな不安を感じた。
そういえば、一人で部屋から出るなといつも宏夢にきつく言われている。
宏夢以外の誰かと二人きりになったことなど一度もないし、ケイトのことは知っているけれど、やっぱり少しだけ怖い。
「ケイティー、宏夢君に連絡しなきゃ」
「大丈夫、成瀬にはもう伝えておいたから。楽しんでおいでと言っていたよ」
「えっ、そうなの?」
「ああ、だから心配しないで」
確かめるようにケイトの瞳を見上げれば、穏やかな眼差しを向けられた。
何だかいつもと違って見えるけれど――
伊織は、動揺する気持ちを落ち着かせるように、小さく深呼吸をした。