罪ノ子
 贖罪ノ子 / 伊織


「誰もいないっ……と」

 裸足で部屋を抜け出した伊織は、暗い廊下をぺたぺたと横切った。
 宏夢は一週間に一度だけ、研究室から姿を消すことがある。その隙を狙って、調査班の取り仕切るフロアーを脱走しては、二号館を探検するのが伊織の密かな楽しみだった。見つかったらたぶん怒られるけれど、今夜も成功だ。

 伊織はいろいろなことを知っていた。
 同じようなドアが連なる寮や、重厚な武器の揃った訓練施設。巨大な神様が納められているアグニス格納庫と、それから広い大浴場があることも。いつかそこで大きな湯船に浸かるのが夢だ。
 この時間には帝国隊もほとんど活動しておらず、暗い廊下を歩くのは伊織一人だけだった。
 軽快にステップを踏みながらくるりと回る。
 付添人は、壁に映る自身の影だけ。細長いそれが、まるで踊るように後を着いてくる。
 真夜中の散歩だ。
 誰からも叱られない、唯一で不確かな自由。

「……、ん?」

 突然、嗅いだことのない匂いがした。本能に埋もれた欲求を揺さぶられて、思わず足を止めて辺りを見渡す。

 どこだ?

 口端から透明なよだれが零れる。
 こんなことは初めてだ。
 無数の神経がさざめき合い、一際大きく心臓が鼓動した瞬間。

 その匂いが、開け放たれたテラスからしてくることに気がついた。

「……」

 足音を忍ばせて入り口へ近づく。柱の影からそうっと様子を窺うと、知らない男がベンチに座っていた。
 肩には血のような赤い軍服を羽織り、顔を傾けて煙草にライターをかざしている。濃い陰影で表情は分からないが、Tシャツを着た胸筋が張っているのや、二の腕の血管が浮き上がっているのを見て、どきっとした。
 どちらかといえばインテリでスマートな調査班に囲まれて育ってきた伊織にとって、今目の前にいるのは、全く別の生き物だった。
 磨きあげられた軍靴、長い足と厚くて広い肩、節くれだった指には火のついた煙草が挟まり、夜の帳がおりた黒髪は風呂上がりだろうか、濡れている。

「かっこいい…………」

 気がついたらそう呟いていた。

 外気が直接降りてくるテラスは、さっき止んだばかりの雨が混じってひんやりしている。
 次第に、男の吸う煙がそこへ融け始めた。伊織を引き寄せる匂いも、徐々に強くなっていく。
 間違いなくあの男だ。
 眩むような魅惑に囚われた伊織は、そこから一歩も動けなくなった。

 どうしよう、話しかけたい。
 けれど、初対面の相手に姿を晒したくないのも本音だ。
 伊織は、自分が少し「違う」ことを頭の隅で理解している。宏夢は優しいから何も言わないけれど、肌の色も髪の色も、顔立ちだってちょっと異質だ。
 だから突然出て行って、恐がられたり嫌われたりしたくない。そうじゃなくても、宏夢以外でまともに話した人すらいないのに。

 ごくん。

 込み上げる生唾を飲み込む。
 こんばんは? それとも、初めましてって挨拶したほうがいい?
 丁度いい言葉が見当たらない。

「伊織!」

 背後から呼ばれた声に弾かれた。
 慌てて振り返ると、怖い顔をした宏夢が肩で息をしながら立っている。どうやら走ってきたらしく、いつも涼しい顔には汗まで滲んでいた。

「ひ、宏夢君……」
「何してんだ! 部屋から出るなとあれ程言っているだろう」
「ごめんなさいっ」
「とにかく戻るぞ」
「……」

 名残惜しくてテラスを振り返る。けれど、焦ったような宏夢に腕を掴まれて、引きずられながらその場を離れた。
 結局、一言も話せなかった。
 伊織の胸に灯った淡い好奇心は、閉じたエレベーターの向こうへ消えてしまった。


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