贖罪ノ子
宏夢 / 伊織
非常警報が鳴ったのは、翌日の朝だった。
一晩中泣き続けた伊織は、まるで水の底に沈んだようにぼんやりしていた。宏夢も虚ろな瞳で窓の外を眺めていたが、どんなに調査班から通信が入っても応答する事はなかった。
最前線で戦う駆蹴は、部屋に帰ってこない。
これっきり二度と会えなくなるんじゃないか。そんな憶測が伊織の胸をかすめたが、そんな不安すら色褪せる程、全てが壊れていた。
「……伊織?」
浅い眠りから目を覚ます。いつの間に眠っていたのだろう。痩せこけた宏夢が、疲れたように伊織を見つめていた。
「苦しいのか?」
乾いた掌が、確かめるように白い頬を撫でる。
伊織は明らかに衰弱していた。
もともと駆蹴がいなければ続かない命だったが、今となっては宏夢の血液すら受け付けない。
ベッドに座った宏夢は、軽くなった伊織の体を抱き上げると膝の上に乗せた。
優しく頭を撫でる長い指。丁寧に髪を梳く動きに思わず目を閉じる。
しかし、迷ったように滑った指が、細い首に纏わり付いてきた。
「宏夢君……?」
驚いて顔をあげると、宏夢がぱっと手を離す。自分でも何をしたのか分かっていなかったようで、動揺した視線が伊織を掠めた。
「……ごめん、伊織。なんでもない」
よそよそしく顔を背けられる。
涙が一筋、零れ落ちた。
寂しいとか、悲しいとかそういう感情がもう邪魔だ。
とっくに心はずたずたで、血だらけで、これ以上何かを感じたら破裂してしまう。
いっその事、体の隅々までデクロになって、何も分からなくなってしまえばいいのに。
そうしたら、何も望まない自分でいられるのに。
「……もういいよ」
「え……?」
「伊織にはもう、十分だよ」
力なく呟いた伊織は、ふらりとベッドから立ち上がった。
「伊織、どこ行くんだ?」
「ケイティーの所に行ってくる」
「……え?」
「それで、デクロにしてもらう」
「何、言って……」
「ケイティーが、伊織の研究は未来に貢献できるって言ってた。だったら、少しでも役に立ってから死にたい」
「やめろ、研究用のモルモットにされるだけだ」
「それでもいい」
「何されるか分かってるのか? 誰のかも分からない精子で妊娠させられるんだぞ」
「……それでもいいっ」
慌てて引き止めてくる宏夢の腕を、伊織は頑なに払いのけた。
「悲しい思い出でいっぱいになる前に、さよならしたいっ……」
悲鳴にも似た声に、青ざめた宏夢が言葉を失う。
追い詰められた二人にはもう何の解決策も残されていない。
どうしたらいい? どこで間違えた? 誰か、教えて――
その時、耳を劈くような爆発音がした。
経験した事のない地響きにケージが揺れ、伊織と宏夢は縺れるように床へ転がった。本棚から図鑑がバラバラと崩れ落ち、窓ガラスに無数の亀裂が走る。
激しい爆発だ。
しかも、明らかに内部が襲われたような衝撃。
突然の出来事に二人で硬直していると、けたたましい館内放送が沈黙を引き裂いた。
『緊急事態発生、緊急事態発生、アグニス格納庫が爆破された、繰り返す、アグニス格納庫、大破』
「え……?」
『帝国隊数名と整備士が巻き込まれた、至急応援求む、繰り返す』
冷静さを欠いた放送は、事態の深刻さを物語っている。すぐそこまでレギヲンが来ていると知り、伊織は鳥肌がたったが、宏夢の頭を過ぎったのは別の心配だった。
這いずるように自分のデスクへ向かうと、積んだ書類が崩れるのも構わずに、パソコンを開いている。
震える唇が、名前を呟いた。
「駆蹴……っ」