贖罪ノ子
宏夢 / 伊織
辺りには、細い雨の糸が降りしきっていた。
ああ、またここにいる。
視線を落とせば、やはりお腹を抱えてうずくまる少年がいた。
赤の混じった雨の筋が、彼の肌を滑り落ちていく。まるで、命がこぼれているみたいだ。
つま先までぐっしょりと濡らした伊織は、寄り添うようにしゃがみこんだ。
「りゅう……、りゅう」
「あなたは“りゅう”を呼んでるの?」
「……りゅう……りゅう」
伊織が何を言っても、ちっとも反応してくれない。というより、こちらの声が届いていないみたいだ。
「伊織も一緒に呼んであげるから、泣かないで」
金糸のような髪に触れると、そこから癒着したみたいに皮膚が溶けていく。徐々に融解していく身体と共に、彼の感情が洪水のように流れ込んできた。
これは、夢?
違う、過去の記憶だ。
こうして一緒に名前を呼んだ事がある、気がする。
「……う、りゅう……、……っ」
自分の呻くような声に気が付いた伊織は、はっと目を覚ました。
夢と現実の境が分からなくなって、思わず確認するように自分の掌を見つめる。
溶けてしまった筈の指は、きちんと五本揃っていた。
ここは、宏夢の寝室だ。
あの後……シャワー室へ連れて行かれた後、子供が産める身体になったと言われた事だけ、はっきりと覚えている。
真乃の膨らんだお腹が一瞬だけ過ぎったけれど、とても喜べる状況ではなかった。
「っ……、ひ……ぐす」
「……?」
ぼんやりと記憶を反芻していると、足元から聞こえる泣き声に気づいた。
まさか、あの少年がいるのだろうか。恐る恐る視線を落としたが、伊織の予想は大きく外れた。
床の上で、宏夢が膝を抱えている。
まだ夢を見ているのかもしれない。覚束ない動きで、震えている肩に手を伸ばす。
「……宏夢君?」
そっと触れた、瞬間。激しい剣幕で手を払いのけられた。
されたことのない仕打ちに硬直する。
怒っているのかと思った。けれど、泣き腫らした宏夢の双眸は、まるで怯えているように見えた。
「なんで、お前……龍二の事呼んで……」
「え?」
「龍、龍って……、もうあいつはいないんだよ」
宏夢は、そのまま自分の両肩を抱くように項垂れた。
訳が分からずに、混乱する。
けれど、急速に離れていく宏夢の心を引き留めたくて、慌ててシャツを掴んだ。
「……っ、伊織じゃないよ、伊織じゃ、なくて……」
「………八重、か?」
「……っ」
「まだ、八重が、呼んでいるのか?」
呟いた宏夢の顔が、ぐしゃぐしゃに歪む。
頭を抱えた宏夢は、そのまま耳を塞いでしまった。
「やめてくれよぉ……っ!!」
「宏夢君……っ」
「ごめん、八重……ごめん、許してくれ、俺を許して」
伊織の目に涙が浮かんだ。
こんな時はどうすればいい?
広がる距離の埋め方なんて、誰も教えてくれなかった。
当たり前だった愛情を失う恐怖に、生まれて初めて直面する。
「伊織は、八重じゃないよ……っ」
首を振る伊織すら、宏夢には八重が重なって見えた。涙に濡れる瞳に、金髪の癖毛と、あどけない表情の幼馴染が揺らめき続ける。
降り積もった後悔は想像以上に重く、簡単に現実を押しつぶした。
ごめん、ごめん――八重、ごめん。
どんなに謝っても、どんなに償っても八重は帰ってこない。
そんな事は最初から分かっていた。分かっていたのに。
「……八重に、あいつに……っ俺、謝りたくて」
「え……?」
「だから、育てたんだ」
「な、何……言って、」
「お前が、八重の子だから……っ」
写真で見た、向日葵みたいな笑顔。
蘇る、龍二と八重の姿。
微かに、蝶番の軋む音がした。
チビが部屋に入り込んだのか、それとも夜風がドアを揺らしたのか。
反射的に振り向いた伊織は、すぐにそのどちらでもない事に気がついた。
僅かに開いたドアの隙間から、人の気配がする。
暗闇の中から、二つの黒い瞳がこちらを見つめていた。
ただ、静かに。
凍りつくような冷たさで。
「……駆蹴?」
音の無い部屋に、震える宏夢の声が響いた。