思ノ子
 人体研究所 / ソラ


「はあっ、はアッ……!」
「んっ、あ、そら、そらぁ!」

 アタルの手を掴んだまま、ソラは冷たい雨の降る山道を走っていた。
 丁度いいことに、姿を眩ますのにはうってつけの夜だ。
 しかしその闇は想像以上に深い。
 アタルが怖がるのも無理はなく、ソラ自身必死に腹の底から勇気を絞り出していた。

「どこ、いくのぉっ」
「いいから着いて来い!」
「やだぁっ、こわいよ」
「我慢しろ!!」
「ひぅ……ッ」

 ソラの怒鳴り声を初めて聞いたアタルは、縮み上がって涙を零した。

「ごめ、なさっ……」
「……怒鳴ってごめん」
「ひっく……ひぃん」
「ごめんアタル、暗いな……雨、冷たいよな」

 立ち止まった二人をあざ笑うかのように、ざあ、と一層雨脚が強まってくる。
 繋いだ手が雨で滑るのを何度も掴みなおしながら、ソラは泣いているアタルの顔を覗き込んだ。

「誰もいじわるしない場所に行くんだ、分かるか? アタル」
「そらもいっしょ?」
「ああ、一緒だ」

 小さく頷いたアタルの頭を撫でると、二人はまた駆け出した。

 研究員たちが言っている『力』がもしこのことだったら。
 人を簡単に殺してしまう『力』だとしたら、とんでもないことに巻き込まれるのは間違いない。
 たぶん自分もアタルも同じ事が出来るのだろう。
 一切手を触れずに、人を肉片にするというおぞましい行為をだ。
 俺だけだったらいい、けれど、アタルはだめだ。

 研究施設からサーチライトが光り、それを木の影に隠れて何度もやり過ごす。
 けたたましい警告音や、自分たちに呼びかける研究員の声まで放送され、その中にはアタルに優しくしていた研究員の声も混じっていた。
 それを聞いて啜り泣くアタルを見て、思わず揺らいだが、結局彼も助けてくれなかったのだと、アタルの耳を塞いだ。
 
 どのくらい走っただろうか。
 ぐらぐらと頭が揺れるほどに疲れた頃、いつのまにか雨は止み、目の前に有刺鉄線が張り巡らされた場所に抜けた。
 不気味にそびえ立つそこから落ちる雫にパリッと小さな稲妻が走ったのを見て、ソラたちは無理やり越えるのを諦めた。
 夏の夜明けは早い。空はすでに白んできている。
 早くここを抜けないと、見つかるのは時間の問題だというのに――
 泥だらけになったアタルの手をひくソラの歩みに、焦りが滲む。

 どこかに抜けられそうな所はないかと柵に沿って歩く二人の前方に、白い物体が草の影に落ちているのを見つけた。
 近づけばそれが見慣れた白衣を着た誰かで、しかし雨にぐっしょり濡れて動かないことに気がつく。
 丁度その前の有刺鉄線に、ソラたちが通れるくらいの穴が開いていた。

「ソラぁ……」
「……ちょっと待ってろ」

 気味悪がって動こうとしないアタルをその場に座らせてさらに近づくと、それは仰向けになった見知らぬ女性研究員の死体だった。
 まるでショック死したように全身の手足を伸ばしていて、太い木の枝を握ったまま事切れている。
 まさかこの穴は彼女が作ったのだろうか。
 その過程で、感電死してしまったように見える。
 けれど、なぜ……?

「…………」

 まだ綺麗な顔だった。死んでからあまり時間が経っていないのかもしれない。
 かえって不審な気さえしたが、見開かれたままの彼女の瞳を見てしまった。
 恐怖と絶望に歪んだまま硬直している。
 逃げようとしたのだ――
 同じ状況にいるからこそ、それがソラにはよく分かった。
 とにかくアタルを呼ぼうと背後を振り返ると、彼の首輪が緑色に点滅しているのに気がついた。

「……、アタル! 早く来い!」
「ひぅッ」

 冷や汗が伝った。
 もしかすると、追っ手がそこまで来ているのかもしれない。
 急がないと、掴まる。
 しかし立ち上がろうとしたアタルは、ばしゃん、と水溜りに崩れ落ちた。

「……っ」

 こんなにふらふらの状態で、安全にあの穴を抜けられないと直感する。
 ゴールは目前だが、時間切れらしい。

「……立てないか?」
「ごめ、なさ……っ、」
「謝らなくていい、少し休もう」

 アタルの擦りむけた膝小僧を掌で包むと、可哀想なほど震えていた。
 正直、ソラも限界がきていた。疲労感に逆らわずに項垂れる。
 遠くの山間から朝日が顔を出した。
 ずぶ濡れになった体を乾かすような強い日差しの力に、二人は目を奪われて固まった。

「朝だ……」
「……うん」

「いたぞー!」

 遠くから声が聞こえる。
 アタルの大きな瞳から、ぶわっと涙が溢れた。

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