儡ノ子
 家族 / 聖夜


 あの日から、何かが変わった。
 固く閉じていた花の莟が、淫らに開いてしまった。
 震えるほど甘美な体験。全身に毒が回ったみたいに、しばらく何も手につかなかった。
 ふいに思い出す度に体は疼いたが、それでも聖夜は毎日を出来るだけ普通に過ごした。月日が経てば、あれも一時の気の迷いだったと思い直す。
 光の届かない夜に紛れた、悪い夢。
 きっと一徹も、そう思っているに違いない。

 地下での避難生活は、退屈な平穏そのものだった。レギヲンの恐怖にさらされることのない偽りの平和は、軽率に時を滑っていく。
 違和感を覚えないでもないが許容の範囲を超えるほどでもなく、次第に感覚が麻痺し始めた頃――まりあがアパートへ顔を出したのは、朝か夜かも分からない七時のことだった。

「まりちゃん!」

 窓から身を乗り出した芽太に、掃除機をかけていた聖夜も驚いて顔を上げる。
 程なくして玄関のドアが開き、何カ月ぶりだろうか、白いワンピースを着たまりあが現れた。

「お兄ちゃん、久しぶり」
「まりあ、急にどうしたんだ」
「一日だけお休み貰ったのよ。ケージにいると息が詰まりそうで。それにお兄ちゃんにも会いたかったし、芽太の顔も見たかったから」

 いそいそと芽太が整えた座布団に座ると、まりあは「地下道、暗くて怖かったぁ」とおどけて華奢な足を崩した。

「お兄ちゃんたちが元気そうでよかった。何か変わったことはない?」
「え? あ、ああ、うん」

 口籠った聖夜に過ったのは、一徹との後ろめたいキスだ。
 妹の直感は怖いもので、まりあはじっと聖夜を見ると器用に片眉を上げた。

「……あったの?」
「何もないってば」
「ふうん、まあ、別にいいけど」

 これ以上追及されては困ると、慌てて話題を切り替える。

「し、仕事は相変わらず忙しいのか?」
「戦争が始まったから、ケージの中は慌ただしいよ」
「月輝はどうしている?」
「さあ、あんな殺人的スケジュールの人なんて食堂に来ないわよ。ここ数カ月見てないんだから」
「……そうなんだ」

 戦争の直前に彼がアパートを訪ねてくれたのは、忙しい合間をぬってのことだったのだろう。

「もしかして、月輝さんまたここへ来たの?」

 わが妹ながら、相変わらず勘が鋭い。たじろいだ聖夜は、曖昧に自分の指を組み直した。

「あの人しつこいわ。何回来たってお兄ちゃんが戻ることなんてないのに」
「そんな言い方するなよ」
「でも、帝国隊でしょ」

 露骨に嫌そうな表情を浮かべたまりあは、必要以上に帝国隊を毛嫌いしている。聖夜が除隊した時も、唯一喜んでいたのはまりあだけだった。
 せっかくの再会なのに、重たい雰囲気が沈む。すると、唐突に芽太がまりあの膝へすりよった。

「まりちゃん」
「ん?」
「僕、ここに座りたい」

 子どもらしく甘える芽太に、まりあもつられて笑みをこぼす。仲の良い二人の様子に、聖夜はふっと力を抜いた。

(……もう、あれから八年も経つんだ)

 ついこの間のように思う、未だに残る過去。たった一人で芽太を連れてきた妹の憔悴しきった顔は、何故か忘れられない。
 ひっかかるのは、一緒にアムネジアから離れた父と、芽太の母の存在だ。その二人について、まりあが口にしたことは一度もなく、まるで暗黙の了解のようで聖夜も聞けない。
 事実、彼らの記憶が残っていないので、大した弊害にもならなかった。だから、ずっと今までそうやって過ごしてきたのに。

「……お兄ちゃん?」
「えっ、」

 不自然に自分の唇を弄っていた聖夜は、妹に怪しまれるよりも先に「お茶を入れてくる」と席を立った。


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