D区の春祭りは地下の大通りで行う。小規模ではあるがきちんと屋台も出るし、夏と冬ほどではないがそこそこ盛り上がる行事だ。
こんな時に不謹慎だと参加しない者もいたが、かえって戦争の恐怖が紛れるので足を運ぶ者のほうが多い。
聖夜たちが大通りに着くと、陰鬱とした地下暮らしを払拭しようと、すでに大勢の人で賑わっていた。
「うわぁ〜っ、提灯がいっぱい! きれいだねえ」
「芽太、俺射的がやりたい」
早速、芽太と奏一は仲良く屋台へ駆けていった。
その後を少し遅れて着いていく大人二人は、ぎこちなく距離を開けたまま雑踏の中を歩く。
聖夜の左手にはリンゴ飴の屋台があって、透明な飴に包まれた赤い果実が、宝石のように並んでいた。
「あれ、食いたいか?」
「え?」
然り気に眺めていただけの聖夜は、慌てて首を横に振った。何か言いたそうな一徹が、落胆したように見えたのは気のせいだろうか。
「せいちゃん、見て〜!」
赤い水ヨーヨーを指に付けてもらった芽太が戻ってくる。
重い雰囲気が途端に散って、聖夜は密かに胸を撫で下ろした。
「すごいんだよっ、奏ちゃん射的が上手なの。えらいねえ、奏ちゃん」
芽太に褒められてまんざらでもなさそうな奏一が、はにかんで両手いっぱいの景品を得意そうに見せてくる。
「本当だ、すごいね」
「こいつ俺に似て射的が上手いんだ。聖夜もやってきたら、」
「芽太たこ焼き食べたかったんだろう。奏一君と買っておいで」
一徹の話を遮ると、浴衣の袂から財布を出して小銭を握らせる。素直に頷いた芽太は、また奏一を連れて人波の中へ駆けていった。
「……聖夜、少し話さないか?」
「……っ、なにを」
「あっちに座ろう」
不意討で手を握った一徹は、人目の届かない暗がりに聖夜を連れていった。
そこに置かれたベンチに強引に座らされる。文句を言おうとして睨むと、一徹は唐突に跪いて聖夜の下駄を脱がせた。
「な、何して、」
「さっきから痛そうにしてただろ、歩きにくいのか?」
聖夜は驚いた。
一体いつから気づいていたのだろう。歩けないという程でもなかったが、確かに鼻緒が足に擦れていた。
桃紅に腫れた柔かな指の間を、一徹は丁寧に広げて確かめている。
聖夜は堪らなくなって足を引いた。
「……悪い、あんまり綺麗な指だったから、つい」
「か、からかうのもいい加減に、」
「別にからかってない。ほら、これ貼っとけ」
一徹は財布から取り出した絆創膏を聖夜に握らせると、隣に座った。「奏一がよく怪我するから、いつも入ってるんだ」と気まずそうに頭を掻くと、ズボンのポケットから煙草を取り出す。それに火をつけ、聖夜にかからないように煙を吐き出した。
その一連の動作を、聖夜は黙って見つめた。
やっぱり、僕はこの男を知っている。
どんな関係だったかは分からないが、きっと普通の友人よりも深い間で、たぶん僕は一徹のことが――
そこまで考えて、聖夜は俯いた。
「……僕には、記憶がない」
「え?」
「原因不明の奇病だって言われている。ここ二、三年で特に酷くなったから、ケージを離れて弟と二人で暮らすことに決めたんだ」
「じゃあ、やっぱり帝国隊は」
「除隊した。けれど僕は今の生活のほうが大事だ。以前どうだったかは知らないけれど、正直今さら過去を蒸し返したくない」
「随分勝手だな。お前は、俺を忘れないって言った」
「え?」
一徹が発した不機嫌そうな声に、聖夜は驚いて顔を上げた。
「悪いけど、俺は聖夜を忘れたことなんか一度もない」
強い口調の告白に、胸元まで赤く染まる。
やめてくれ、こんなの変だ。
「ご、ごめん、本当に覚えてないんだ」
「俺はずっと会いたかった」
「……っ!?」
突然体を引き寄せられる。顎を取られて、乱暴に唇を押し付けられた。
「……ん、ぅ……やめ、」
「口、開けろ」
聖夜は強く拒めなかった。
煙草の味がする舌に縁をなぞられて、大人しく弛めればぬるりと熱が入ってくる。
「ん……、っふ、ぅん」
背筋がぞくぞくして、思わず一徹のシャツを掴んだ。
ずっと前からこうしたかったような気がしてならない。夢中で絡ませた舌の熱さに、体の髄が蕩けていく。
混ざった唾液が喉もとをつたう、セックスでも始めそうな深い口づけだ。お互いの粘膜が擦れて溶け合い、激しく溺れていく。
しかし、あざとく働く聴覚は、幼い足音の気配をしっかりと拾い上げた。
「せいちゃん、どうしたの?」
「人混みに酔ったみたいだ。少し休めば大丈夫だから……な、聖夜?」
「……、うん」
出来立てのたこ焼きが入った袋を下げた芽太は、涙目で俯く聖夜を心配した。
その兄が、不自然に濡れた唇をこっそり舐めていることに気づきもしないで。