「おはようございます」
大学がない土曜日は、九時から十八時までアルバイトが入っている。俺は今日も、駅から徒歩五分の距離にある楽器店に裏口から入ってあいさつをした。
「あぁ、おはよう」
ガラスのカウンターを丁寧に磨いている店長。その手には使い古しのポリシングクロス。これは元来楽器を磨くための布で、感触は眼鏡拭きをもう少し厚くしたような感じ。
森野内くん、と店長が優しく俺を呼んだ。
「今日二件仕事が入っているから、頼むよ」
「はい、わかりました」
俺はリペアルームに入った。
楽器というものは非常に繊細で、状態が悪い楽器にいい音は出せない。奏者は常に楽器を思いやり、リペア師はいつだって慎重であれ――本にはそう書いてあった。俺も心からその言葉に同意する。
今日の仕事は大変だった。一件目は、地元の中学校の吹奏楽部のテナーサックスで、大分扱いが酷い。その身は輝きを失い、塗装がはがれている。そればかりでなく、傷や凹みがかなり目立つ。よく言えば年季が入っていると言うのだろうが、底部の鋭角な窪みはどうにも言い訳できないだろう。
「ひでぇや……」
まあ外見はともかく、と箱に入っていたメモを見る。本日の注文は「キイが動きません。ごめんなさい」だった。
楽器を手に取る。む、と俺は口をヘの字に歪める。なんと、キイがトーンホールを塞いでくれない。これでは音階が出せないではないか。原因はすぐに分かった。そこのねじの締めすぎだ。
「だから『ごめんなさい』なのか」
ちょっぴり肩をすくめる。あのメモの余白に書いておこう。
勝手にねじを締めないでください、ちゃんと調節しておきました、と。
もう一件、クラリネットの接続部分のコルクを数ミリ削って上管と下管を繋げやすくし、今度は店番に回る。今日も客はまばらで、売れたものは楽譜が三冊と用語辞典が一冊。
「不思議だよねぇ、森野内君」
「なんでしょう、店長」
ふう、と息をついて、還暦をすぎていくらか経った店長は慈しみを持った眼差しで店頭のショーケースを眺めた。
「人間には、本当に音楽が必要なのだろうかって、この仕事をやっていても不意に思ってしまうことがある。音楽は決して形には残らないじゃないか。楽譜として存在していても、楽譜が生の音楽では決してない。どんなに録音とか再生技術が進歩してもね、結局音楽は“今” にしか生きられないはずなのだよ。
それなのに実際は、数百年もの年月を経てもなお生き続ける曲もあれば、新しい音楽は日に日に作られてもいる。どうしたってこれは、人間がいつの時代にも音楽を欲し続けてきたからでなくて何と言う?
一本の木も、なんでもない鉱物も、私たちの体も声も皆、生きている証なのだよ。そしてそれは紛れもなく、音楽なのだよ。それを常に心に思いながら生きている人間は何人いる?世界の、日本の何パーセントだ?
……それなのに我々は、その身近さ故に気付きもしない。音楽は、生きているのだという事を。いや、違うな……。生きているものこそ、音楽なのだという事を、かな。
そう思うと、この子たちがかわいそうであり、だからこそ、愛しいのだ」
俺もつられて、「この子たち」を見つめた。ショーケースに並んだ彼らは、何とも誇らしげに体を輝かせて並んでいる。オーボエ、クラリネット、アルトサックス、フルート、トランペット、トロンボーン……。吹奏楽の花形とも言える、持ち味のある楽器たち。
俺は、言葉を失った。店長のこの、言葉のエネルギーにはいつも圧倒されるばかりだ。
自宅から自転車で二十分というところに神坂音楽学院という専門学校がある。俺はそこに通って、楽器のリペア――楽器の修理や調整のこと――を専攻している。
この間の注文のように、小さなねじの締め具合一つで楽器の調子は全然違ってくる。いわば、音楽家の音楽を良くするのも悪くするのもリペア士の技術次第というわけだ。それが嫌な音楽家は自分でリペアを学んだりもするのだけれど。
学校で学んだことはすぐに復習したくて、昼休みの間に俺は大学の楽器庫に立ち寄る。立ち寄って、一つ一つ楽器を手にとって眺める。
楽器のほとんどは普段分解されてケースに収納されているものだから、俺が手にしているのは一台の楽器の個々のパーツ、というわけだ。
大学の楽器はもちろんプロ(教授達のことだが)の手でリペアされているから、見るだけで勉強になる。新品と見間違えることもある。完璧だ。惚れ惚れする。吹けばもっと良く状態が分かるのだろうが……。
「おーい、誰だ、楽器庫にいるのは」
「すみません、すぐ出ます」
「ああ、またお前か。ふん、早く出ろ」
俺が楽器庫侵入常習者である事は、学内では既知事項である。破壊したことはないので、今の所お咎め無しだが、万一そんな事があっても、少しの間学校を休めばいいだけだ。
「すまないね、今日は出張だ」
「は、はあ」
大学も夏休みに入り、バイトは週五日出ることにした。店長は二つ返事で許可してくれた。
ここで働き始めて二年と少々。持ち込まれた楽器の修理は日常業務だったが、出張は初めてだ。
「ほら、駅の向こうに桜並第二中学校っていう学校があるだろう。そこに行って生徒さんの楽器を見に行ってほしいのだが、具合が悪いかな」
吹奏楽で夏と言えば、吹奏楽コンクールの時期だ。汗を流しながら楽器を手にする青春が目に浮かぶ。
「いえ、喜んで」
リペア道具一式をひっつかんで、店を後にした。歩きながら振り返り、俺を見送る店長に手を振った。
暑い。アスファルトに足が持って行かれそうな感覚にとらわれる。そのせいか、目的の中学は地理的にはさほど遠くないはずなのだが、首にかけっぱなしのタオルはもう洗濯物の生乾きみたいになっていた。
しばらくすると、象の鳴き声が聴こえた気がした。プオー……パオ―……、という具合に。
「もうすぐだ、よし」
一人で呟いて、また歩く。さっきの音は十中八九、ホルンの音だ。後の一二は……。
(……象、かな)
「気をつけっ。礼っ」
きりっとした女子生徒の号令。それに続いて、こんにちはっ、と体育館いっぱいに響く声は心地良かった。 サワダ楽器の森野内です。今日は皆さんの楽器のリペアを行うために来ました。自分の楽器に不具合がある人は、その箇所が分かるようにメモに書いてケースに入れておいてください、と挨拶を済ませた瞬間、
「はいっ」
と一際通った声で返事をする返事をする生徒がいた。ほかの生徒はやや気後れした様子で、
「……はい」
と薄い返事がまばらに聞こえてきた。一番に返事を決めていたのは、先ほど挨拶をしてくれた部長さんのようだ。
「よろしくお願いしますっ」
俺は軽く一礼をして、顧問に連れられて歩き始める。部長さんの首には、楽器を支える為のストラップ。
(なるほど、ね)
通された部屋は、涼感の爽やかな空間だった。クーラーがばっちり働いている。
パートごとに次々と生徒さんが入ってくる中、俺は密かに先程の部長さんの姿をチラチラと探していた。ストラップをつけている様子から察するに、サックス、バスクラリネット、ファゴットのいずれかだろう。
「失礼しますっ」
耳が先に反応し、上目遣いに扉の方を窺う。
「木管低音部です。私の楽器だけですが、よろしくお願いします」
と、恭しく両手で茶色いケースを差し出してきた。一人、か。
「あぁ、クランポンのバスクラね」
「はい」
「ん、じゃあ見ておくよ」
「はいっお願いします」
手早く蓋を開けて、ざっと中を見る。メモが二枚。
「ジョイント部分のコルクが剥がれています。お願いします」と「足部がよく固定されません。お願いします」だった。なるほど……ね……。
……。
「ねえ、君、練習は?」
じっと見つめられては、ちょっと集中できない。
「あっはいっ、バスクラはこれ一台しかないので、練習できないんです。なので……その……邪魔ですかっ」
練習できない、と来たか。聞き捨てならないな。
「部長さん、朝練メニューは」
「えっ、朝練」
「そう。してないの?」
いえ、そんなことは、と背筋を伸ばして淀みなく話す。
「朝は七時四〇分に学校着。音楽室の鍵を開け、楽器を二〇分ほど吹きます。最初は、最低音から最高音のロングトーンです」
「全員来てる?」
部長さんが初めて言葉に詰まった。まあ、想定内だった。
「……いえ、上達していない者ほど、出席率は低いです」
だろうね。厚さ一ミリほどのコルクを五ミリメートル角に切りながら、俺は思う。そしてそれを金具に貼り付けながら、言う。
「楽器が無くたってさぁ、呼吸練習とか他の練習方法もあるんだから。できないなんて言ってちゃだめだよね」
沈黙。俺は楽器をいじっているからまだ良いが……部長さんを盗み見してみる。ぎこちない面持ち、いや、眉根を寄せて考え込んでいる。……しょげている?
これだから中学生は……。
「今日は何時まで」
「は……何でしょうかっ」
声、ひっくり返ってるよ。
「今日は何時あがりなの」 「ええと、十二時ですけど……」
意識して蓋を丁寧に閉めて、部長さんを真っ直ぐに見つめて一息で言った。
「昼飯食ったらサワダ楽器に来な」
これ直ったぞ、と呆気にとられている部長さんにバスクラを手渡す。
「練習メニュー、教えてやるよ」
スローモーションのように表情筋が動き、部長さんは破顔した。
「ありがとうございます!」
深々とお辞儀をして、この快適な空間を足早に出て行った。
「あぢ……」
サワダ楽器に戻った俺は、すぐに奥のスタッフルームで昼食を摂った。摂りながら、こんな事を題字としてルーズリーフにまとめていた。
『一日の練習メニュー』
「お、森野内君、帰っていたの」
「あ、はい。つい先ほど」
店長がルーズリーフを見つけた。
「ん?……森野内君、楽器やるの?」
思わず俺は首と手をブンブン振った。
「まさか! 昼過ぎにちょっとお客様が見えるので、その……」
店長は俺の意をくんでくれた。ははぁん、なるほどね、といったような面持ち。
そして、もう一つ。空気の混ざった唾をゴクリ、と飲みこんだ。
「店長、俺、今日行った中学の顧問……副顧問みたいなのをやってみたいんです」
「え? リペアじゃなくて?」
言ってしまってから、後悔した。後悔、というより、まずい事言ったかな、という不安に駆られた。何せ、この店でリペア作業できる人材は俺一人だけだったからだ。
「い、いや、やっぱいいです。さすがにここを離れる訳にはいきませんよね」
すんません、何でもなかったです、この話は無しって事で。後頭部を掻き掻き、なんだか慌てた口調になる俺。店長はその間、別に良いよ、とか、考えておくよ、とすら言ってくれなかった。正直、期待していた。それどころか店長は、
「君は頑張りすぎて空回りするタイプだからな。顧問はちょっときついかもしれないね」
と、心の傷をを更に抉る始末だった。
「ごめんくださいっ」
「ほら、森野内君、お客様だよ」
いつもの笑顔に戻った店長は、ちょっと待ってもらうように言ってくるね、と、スタッフルームをゆっくりと出た。
俺は急いで自前の日の丸弁当をかっ喰らう。