僕が彼女に出会った日、僕は初めて僕の使命――小説という形で誰かの心の叫びを、誰にも聞こえない、声にもならないような叫びを伝えなければならないという使命――に気がついたのだ。彼女との出会いは、僕の運命を左右したと言っても全く言い過ぎにはならないだろう。僕はそれから毎日小説を書き続けた。この部屋に通い、彼女との再会を祈るかのように書き続けた。僕はわからなかった。なぜ、何が僕をそこまで突き動かしたのか。
よく考えればわかるのか?
彼女――鳥遊緋穂に会いたい、果たしてそれだけだったのだろうか?それでは僕の使命はどこに行ったのだ。さてはあの日々のどこにもなかったのか……?
僕は首を横に振る。いや、そんなはずがない。僕は僕のために、僕の使命に忠実にのっとって小説を書いたんだ。それ以上でも以下でもないさ。僕の中には確かに、伝えたい何かが常に存在していたし、それゆえに僕は常に小説を書き続けることができたのだ。
僕にとって鳥遊緋穂とは何なのか?
「分かってきたみたいね」
僕は執筆活動に対して最初からこんなに熱心だった訳ではなかった。執筆は趣味でしかなかったし、ここまで熱中することなど夢にも思わなかった。いつからだろう? 記憶を手繰り寄せたその先は。
僕が初めて僕の使命に気がついた日。そう、彼女と初めて出会ったあの日に違いない。
「まさか、君は……」
本当に、そうなのか? そんなことが、あるのか?
「そうね、正解よ。本人に気付かれないっていうのは、ちょっと寂しいわね」
彼女は僕の、文学に対する思いそのものだったのだ。
「とりあえず……卒業、おめでとう」
彼女はそう祝福してくれた。僕はただ形ばかりの礼を述べるしかない。
「ああ、ありがとう」
ただ、なぜだろう。僕は高校卒業を期に執筆活動をやめようだなんて微塵も思ってはいない。彼女が本当に僕の、その、なんだ、文学に対する思いそのものなんだとしたら、なぜ今現れるんだ? この胸のざわめきは何なんだ?
「ねえ、考えたこと、ある?」
彼女の言葉は急だった。そして彼女の表情は、なんとも悲しげであった。
「君が高校を卒業したら、常識的に、もう高校生にはなれない。それがどういうことだかわかるかな」
とりあえず僕は、思っていることを言ってみる。
「前に進むしかないってこと、か?」
ゆるゆると首を振られた。違う、と?
「うーん、全く違う訳じゃないわ。そうね、もう過去を気にしてちゃいけないよね。
でもね、君が自分のことを一人の『文学人』として認めることができているなら、この事を忘れないで。
『君はもう、高校生の頃の灯火野智哉の作品を生み出すことが出来ない』ということよ」
彼女がそこで言葉を切ったのは適切だった。僕はゆっくりと今の彼女の言葉を咀嚼する。
彼女はそんな僕の様子を確かめながら話し続けた。
「君がもう高校生の頃の作品を書くことが出来ないってことはね、君はもう高校生の感性を持つことが出来ないってことなの。高校生だから書ける文章だってあるでしょう。だけどそれはもう、書けない。
でもあなたは高校生活を十分に執筆に捧げることができたはず。そして、私の言っていることもわかっているはず。
前に進むしかない……それも確かな一面ね。でも、私が一番言いたかったことは」
僕にもわかってきた。君が言いたかったこと、それは、
「今書ける作品を、その時に惜しみなく書いて欲しい、それだけよ」
部屋には、僕と彼女の言葉と静寂だけが残った。もう会うことはないんだね。寂しい確信が心にチクリと刺さった。
机の上にまた、見慣れない本が置かれていた。表題は「心のままに 鳥遊 緋穂」だった。適当にページをめくると、それが歌集であることは一目でわかった。
一つの歌が僕の目に飛び込んできた。それはこの歌集の、序章のような役目を果たしていた。
発句
会いまみゆ二度目が終わりであるならば初めの出会いはすべての始まり
赤いその歌集を胸に抱くと、人肌のような温もりを感じた。僕は声をあげて涙を流した。