あかりがまぶしい
08
 湯上がり、宿の外の玄関前階段に腰掛けて夏の夜の空気に当たっていた。今頃仁岡は駒浦と接触して何かしら話しているのだろうか。何を話したって、今の駒浦なら問題ないだろう。あの二人の関係がこじれることは、少なくともないはずだ。
 そしてそんな二人を、俺が邪魔する義理もない。だからこうして夜風と戯れているというわけだ。

「ここにいたんだ。探したよ」

 ひょいっと柚希が俺の前に現れた。温泉の湯気と石鹸の甘い香りがする。

「ああ、ちょっと風が心地よくて」

 そうみたいね、と柚希が俺の隣に座り込んだ。虫の声だけを静かに二人で聞く。
 と思ったら、急に柚希はすっと立ち上がった。

「さっき見つけたとっておきの場所、教えてあげる」

 目も合わせずにそう呟いて俺の手をぐいと引っ張って歩き出す柚希の足取りが、いつになく勇ましい……気のせいだろうか?




 連れて行かれた場所は、先ほどの祭りがあった神社の裏手にあった。そこは月の光を浴びて光る夜露が珠玉のように散らばる高原。原っぱは途中で緩やかになくなり、眼下に広がる住宅地からはあたたかな暮らしの明かりがもれている。空を仰げば、星空が俺たちを包み込んでいるような、そんな感覚にとらわれた。二人だけに与えられた夜が今まさにここに存在していて、それはあまりに静かすぎて耳が痛いほどだった。
 何の前触れもなく、柚希が草原に体を横たえた。

「こうしてみて。空が、とても綺麗だから」

 俺も彼女の隣で彼女に習う。視界が星空のキャンパスで埋め尽くされる。

「本当だ。星って、こんなに沢山あったんだ。知らなかった」
「ここの空気が澄んでいるからね。……でも私はあんまり視力がよくないから、望道よりも見えてる星、少ないかも」

 柚希は本当に楽しそうに笑った。なんだそれ、と俺もつられて笑った。
 ねえ、と柚希がまた俺を呼ぶ。柚希の方を見ると、彼女は右手を空高く伸ばしていた。

「……不思議」

 俺も真似してみる。柚希よりは、空に近いところに手のひらがあるはずだ。
 柚希が語り出すとき、周囲はいつも静かだ。

「こうやってどんなに一生懸命腕を伸ばしても、手と空とでは目のピントが合わないでしょう?この腕の短さといったら、この世の何物も掴めないような、そんな気になるの」
「それは……星空が、遠すぎるんだ」

 柚希の、息苦しい声を慰めるように、俺は話しかける。

「ええ、そうね……小さいのね、私たちって。
 私たちは星を見つけることができるけど、星はきっと私たちを見つけることなんてできない。それは星が、私たちなんかよりもずっと大きくて、輝いているからよ」

 疲れたのか、柚希は伸ばしていた腕をゆっくりと降ろして、長い息をついた。

「私たちは小さいだけじゃない。星や宇宙に比べたら、私たち人間の一生は地球の息吹なんかよりもずっと短くて、儚い存在なのよね」

 柚希がぎゅっと自分の腕を抱えた。

「誕生日が何?」

 悲痛な声は続く。それはまさに、『告白』だった。

「私が生まれた日から、地球が太陽の周りを整数倍回廻った日を、私のために祝ってどうするの。私なんかを祝うくらいなら、地球の誕生と今日までの存在の奇跡を毎日祝うべきじゃない。
 誕生日なんて要らない。誕生日なんて嫌い。嬉しくもないし、祝ってほしくもない……」

 その細い体に、悲しみを無理矢理押し込んだような彼女の静かな声が、星空の海の中で小さく波打つ。
 仁岡から駒浦の過去のひとかけらを聞いたことを思い出した。柚希の過去にいったい何があったのか、彼女を傷つけ一年間縛り付けたものがいったいなんなのか、俺はまだ何も知らない。知らないけれど、彼女が自ら口を開くまでは、知らなくてもいいと思っている。それは決して、どうでもいいと思っている訳ではなくただ、無理をして柚希の口を開かせ、無理をして聞く話ではないと思うからだ。彼女の話を聞いたところで、多分俺は一緒に傷つくことしかできない。それは全く、彼女の心の救いにはなってはいない。
 柚希は溢れる悲しみをなかなか制御できないようでいた。




 ……違う、違うんだ。俺は、柚希のそんな顔を見たいんじゃない。そんな暗いことを考えさせるために、この旅行を企画したのでもない。俺は祈るような思いで口を開いた。

「存在はすべての事物のいわば定義みたいなもので、定義とはつまり、真実だ」

 駒浦は俺に、こう言ったことがある。

『何か考えるときのその、全世界の不幸を背負ったような顔は今すぐにでもやめるんだね。四ノ倉さんを見習え』

 そのとき俺は、これは駒浦らしくない、人間観察がなっていないと思った。確かに俺の顔は、思考中でもそうでなくても不幸な顔をしているかもしれない。しかし柚希は、基本的に表情に乏しい。彼女の喜びは、だからこそ表に現れた時に価値があり、純粋なんだ。

「今世界にある全てのものが存在するから、今の世界があるんだ。ということは、『在る』ことそのものが世界の定義である……そうだろ?」

 そして柚希は、悲しみさえも自分の中に閉じ込めてしまう。表情に見せないだけで、苦しい思いをしている。俺らよりも一年、特別に長く生きているだけ多く、実は俺たちよりも辛い思いをしているに違いない。表情に表れない分、彼女の心の中に抑圧されている分、もしかしたらもっと、傷ついているのかもしれないのだ。

「俺らは、存在していていいんだよ。俺らが存在してるから、今の世界が定義されている。俺たちは小さいながらも世界の要素で、世界にとって必要な存在なんだ。俺たちは、世界の『真実』になれるんだ」

 俺は、大切な人の事くらい、自分の手で守ってあげたいんだろう?
 そんな不安定なところで苦しむ柚希の近くで、なに寝ぼけた顔してんだよ?

「世界が存在していることが絶対的真理である限り、俺たちの存在は必然的に、世界が存在するための必要で十分な要素だ。俺たちが世界を必要としていると同時に、世界は俺たちを必要としているんだ。俺たちは生きてていい。『存在』していて、いいんだよ。……なあ、そう思うことにしようよ。だから――」

 今日ほど彼女が涙を流すことに耐えられない日はないと、思った。

「そんな顔、しないでくれよ」

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