彼女の腕を引き上げて起こして、目の周りの冷たくなったところを指先で優しく拭った。
「お前が今でも辛い思いをしてんのは、分かってる。でもいつまでもそうだとさ、俺、何のためにお前の傍にいんのかわかんねえ。
笑ってくれないか? 俺、笑ってる柚希が一番好きだ。
辛ければ、泣けばいい。苦しければ、甘えればいい。でも、最後にはお前が笑ってくれていないと、俺が辛いんだ」
こんな言い方をするのは、初めてだった。生きることを論じ愛を論じ思いを論じてもなお、俺たちには語り尽くせていないものがあった――それが「存在」だったんだ。生きていたいと言った。確かなもので結ばれたいと思った。守りたいと約束した。そして俺はまだ、「一緒にいたい」と言ってはいない。
……このタイミングで渡すのは、不自然だろうか?ここで「それ」の力に頼るのはまずいだろうか?袋の感触を確かめて、思い切って彼女の手に「それ」を乗せた。
「タイミング変だけど……誕生日、おめでとう」
安っぽい紙袋は、少し触れただけで雑で大きな音がした。
「どうしたの、これ……?」
目を大きく見開いた柚希の開いた手のひらに星が散った。小さな小さなプラネタリウムのようなモニュメント。
「ほら、そこの祭りの屋台で買ったんだ。……綺麗だろ」
夏の夜の風が、二人の頭上を駆け抜けた。密度の小さい柚希の髪が風の小川に流され、痛ましい悲しみからこぼれる涙もそれに運ばれ草原に溶けこんでゆく。
「うん。すごく、きれい……」
その小さな星空を、優しく胸に抱える柚希。数秒間そうしていたかと思えば、再び思い出したように本物の星空と見比べる。なんの言葉も発さずにただそう、繰り返していた。その無音の時間は先ほどとは打って変わって柔らかい安心感に包まれていて、いつもの日常に浸るかのように俺は芝の上であぐらをかいた。
昨日も訪れた夜が今日もこうして俺らが今いる世界にやってきた。暗闇の中を二人きりで過ごすのは初めてだ。
これが嬉しくないはずがない。ゴロリと芝に横たわって目を閉じれば、柚希の気配を感じる。耳を澄ませば、柚希の息づかいが聞こえる。俺の左側にいる柚希の全てを今、左半身の全神経で感じているような気がしていた。
“彼女の温もりが手に入るなら”。俺はしがない高校生男子の一人にすぎず、こんな状況にあったらついぞそんなことも頭によぎる。彼女のことを考えると、一ミリの距離さえ遠すぎる。手を伸ばせば、触れられる――いつだってそれくらいの距離に、柚希はいてくれた。その細くて軽い体を、思いのままに強く抱き寄せたことも、あるけれど。
……これ以上考えるのは、もうやめよう。何というか、紳士じゃない。
望道、と柚希が俺を呼んだ。
「何だ?」
目を開き体を起こすと、左側の、思ったよりも近い距離に柚希がいて驚いた。プレゼントはもう、袋にしまわれていた。
起こした俺の左肩に、彼女が力なく頭をもたれかけた。彼女の香りがふわりと香しく鼻をくすぐった。心臓が、一足飛びに跳ね上がる。
「私がこの場所を見つけたとき、一番最初に思ったこと、分かる?」
体重をあずけたまま、柚希が少しいたずらっぽい口調で聞いてくる。俺は、何も言えなかった。言葉にするのが躊躇われるほど、分かりきっていたから。
俺の返事を待つことなく、柚希は続けた。
「望道を連れて行きたい。ほかの誰でもない、望道と二人で、綺麗な時間と景色を共有したい、って。……きっと、素敵な夜になるだろうから」
柚希の声は小さかったけれど、普段に増して透き通っていた。
「あんな話、するつもりなんてなかったの。少しも、なかったのよ。でも考え始めると私、やっぱりまだ駄目。
でも、でもね、こんな話ができるの、私の今までの一生の中でも望道だけなの。望道だからつい、自分の弱いところが出てきちゃう。ずっとあなたと一緒にいたいって思っているのに、頭のどこかでは、“ずっと”なんて、“絶対”なんてあり得ないなんて思ってしまう自分がいて……ごめんね。
でも私、生きていてもいいのね。私のようなくだらない人間でも、それでもあなたの隣にいることを……あなたは笑って許してくれるのね。
私は、私のままでいてもいいんだって……教えてくれたのは、あなたよ」
だから、ありがと。
彼女はそう言って、また泣いた。熱くなる頭を、ゆっくりと撫でてやる。撫でたせいで彼女の顔にかかってしまった髪を払ってやると、さらさらとした手触りの下から白い頬が現れた。震える指で触れたその頬は、暖かかった。
「柚希が泣くほど悲しいなら、俺は『絶対』なんて求めたりしない。俺が大事だと思うのは、今目の前にいるお前だけだ」
いいことを、なけなしの理性を、言葉にしたいのに声はかすれてしまう。
柚希の左手が、彼女の頬の上で俺の右手に重なった。
「ありがと、望道」
いつもよりも近くで微笑む大きくて潤った黒い瞳に、月の光が差し込んでいた。そしてその瞳が、白いまぶたに隠される。
俺は、柚希の唇の柔らかさを一生忘れない。
お互いの顔が離れて、体温が夜風に撫でられた。甘酸っぱい沈黙は、二人の苦笑いでふっと解けた。
「そういえば神社で、みゆきちゃんと何か話してたでしょ」
そして急に現実に引き戻される。
「あ、いや、あれは……何でもないよ」
何の後ろめたいこともないのに、躍起になってあれこれと言い訳を考える俺を、柚希は上目遣いで見つめてくる。
「こ、駒浦のこと聞いてたんだよ!ほんとに、それだけだから!……で、仁岡が、あいつのこと好きなんだって……」
言ってしまってから口をつぐむ。焦りすぎて要らないことまで口走ってしまった。しかし柚希の表情はそんな俺の焦り方とは対照的に、何かを心得たようだった。
「……もしかして、知ってたのか?」
「みゆきちゃんが私に話す訳ないじゃない」
そりゃあ……そうだ。
「ほら、望道たちが寝坊したとき、みゆきちゃんが『いい加減、人を待たせるのはやめてよね!』って言ったの覚えてない? あの言い方、少し変だなって思ってたの。
みゆきちゃんが駒浦君に好意を寄せてるっていうのは、見ていれば分かる。そして二人が幼なじみだってことは駒浦君から聞いてた。そこでそのセリフなら、この二人何かある、少なくとも、みゆきちゃんの方には絶対何かある……そんなことくらい、分かるわよ」
柚希が恋愛論というか、他人様の事情を語るところはいやに新鮮で面白い。ついついにやけてしまった。
「柚希……物理以外の話するの、似合わないな」
「何が言いたいのよ」
柚希に肘で軽くどつかれた。こういうときの笑顔の、普段に似つかわしくなくあどけないところがまた、たまらなく愛くるしい。
「ああ……いい旅だったねぇ」
ガタンガタンと電車は線路を踏んで走る。ボックス席の向かいに座る駒浦が、しみじみとした口調でそう、つぶやいた。
「同感だ」
女子二人組は昨日の疲れが取れきれていないようで、電車に乗り込むや否や眠りに落ちてしまっていた。
「ふああ……俺もちょっと寝かせてもらおうかな」
肩に乗る仁岡の頭を気遣いながら、駒浦は軽く腕を組んで目を閉じた。
この二日間の旅に思いを馳せる。仁岡に会えた。駒浦を知った。柚希を近くに感じた。今までに過ごしたことのない時間だった。これを「余暇」という言葉で括りたくないくらい、よかった。……あ、洒落になってる。
こんなに身近にいながらも、未だに俺は柚希の過去や駒浦の過去の百分の一も知ってはいない。それはまだ少し俺の心を痛めるけれど、二人はその過去を乗り越えて、もしくは乗り越えようとして、今俺の目の前にいるんだよな。
ガタンと車両が縦に大きく揺れて、柚希の頭が俺の右肩の上で少しバランスを崩した。単調な寝息はしかし変わらず、眠りから覚めてしまった様子はない。向かい側に目をやると、眠っている二人の顔はなぜだか幼い雰囲気を纏っていた。
駅に着いたら、俺が三人を起こしてあげないといけないんだろうな。宿では仁岡に起こしてもらったんだ、それくらいしてやってもいい。
夢の中でさえもこの旅を楽しんでいる三人と俺を、銀色の電車は街へゆっくりと運んでゆく。