駒浦は一、二秒唇をふるわせた後、俺の視線から逃げるようにうつむいた。
「俺を……つけてたんだろ」
「はぁ? 駒浦を?」
言葉の意味が掴めない。しかし、冗談なんかじゃない、と駒浦の表情が言っていた。
「去年の春、俺は……あいつからの『依頼』を、すっぽかしたんだ。俺の勝手な都合で」
そう言った後、駒浦は冷たく笑った。
「はははっ、『勝手な都合』も何もない。簡単な話さ」
ひとしきり自分を笑った後の駒浦の目に、光が射してなかった。
「俺が、四ノ倉さんを好きになってしまっただけ。俺は自分の力で掴んだ四ノ倉さんに関する情報で、四ノ倉さんに近づいた。――杉矢にはなんの報酬も無く、ね」
普段から散々人様の情報を掻き回しておきながら、なんということを。俺の中でまた、小爆発が一つ起きた。
「てめえ……人をなんだと思って」
「うるさい!」
土を蹴って駒浦が立ち上がった。駒浦が声を荒げた、そんなところを初めて目の前にして俺は、二の句を継げないでいた。
「卑怯だとは思った。こんな卑怯なこと、自分だって嫌気がさしたさ。でもな、どうしようもなかったんだよ」
それなのに、と言葉を止めたと思ったら、駒浦が俺に掴みかかって俺を膝立ちにさせた。
「どうしてお前なんだ! 俺は何のために今まで頑張ってきたんだ! どうして四ノ倉さんの隣にいるのが俺じゃなくて、どうしてお前なんだ!」
駒浦の鋭い眼光に見つめられ、燃えるように熱くなった頭がすっと冷えていくのを感じた。駒浦の笑顔を思い出す。駒浦はいつも、俺の隣では笑っていた。例えばあの夏の鈍行列車の旅は、一生の思い出だった。夏の日差しも、畳の香りも、祭りの空気も、野原の芝の温もりも、あの時間の全てはこの全身で覚えているのに。
『これから先も一緒にいようと思う相手なら、君らに必要なのは思い出だ。違うか?』
あいつは、誰がなんと言おうとあいつだけは、俺らのことを理解して支えてくれていると思っていたのに。
「人の心を弄んだあげく卑怯な手を使いやがって。俺はお前が本気だと思ったから、お前の気持ちを尊重したいと思ったから……」
お前が柚希のことを好きでいることに、俺は何も言わなかったんだ。
俺は立ち上がり、胸ぐらを掴まれるままに言い放った。
「自分の親友が自分の彼女のこと思ってるだなんて、嬉しいはずねえよ。でもな駒浦。人の気持ちにとやかく口出しする権利なんて、俺にも誰にもないんだよ」
俺を睨み続ける駒浦の唇は、さっきから絶えず震えていた。
「お前なんかに俺の気持ちなんか分かるかよ」
駒浦は俺より少し背が低い。充血して赤く染まった目が、斜め下から真っ直ぐに俺を捉える。
「勉強もした。身体も鍛えた。見た目だってお前よりも俺の方が評価がいい。お前なんかよりもずっと、俺は努力したんだ。なのに……なんでお前なんだよ!?」
体温が2度くらい、下がったような気がした。全身の血が頭から足下へと一気に降下した。
「どうしていつもいつも俺ははじっこで、誰かのことを指くわえて見てなきゃいけないんだ。どうしてお前が四ノ倉さんの隣に居られて俺じゃないんだ。俺の何がいけないっていうんだ!」
俺の襟元を掴んでいた手から急に力が抜ける。
「俺は努力した。そして情報さえあれば俺は言いたいことが何でも言えた。努力と情報で俺は、変わったのに!」
駒浦……どうしてお前が泣いてんだ?
「それなのにお前はさ……どうして俺は、お前が、お前なんかが、」
整えられた髪を両手でくしゃくしゃと掻き乱して、駒浦はその場にうずくまった。
「羨ましいだなんて思ってるんだよ……!」
俺たちの間を流れる風が、俺たちからそれ以上の言葉をさらっていった。それと同時にやってきたのは、俺がさっき記憶から呼び起こした彼女の言葉。
――それはまるで、影を見て光を見つけるみたいだと思わない?――
「お前の気持ちを分かってやれるって言えない。俺はそれが辛い」
頭を抱えたまま動かない駒浦に、俺はかける言葉が見つからない。
「お前のきれいごとはもう聞き飽きた」
ただ、思うままに話していた。話さないと、駄目だと思った。
「俺の言葉の何分の一がお前に伝わるんだろうな」
少し離れてしまった駒浦との距離を詰めた。それでも駒浦は一歩も動かない。
ちゃんと腰を落ち着けて、俺はただ一人呟いた。
「俺だって、お前みたいに器用に、上手く生きられたらと思っていた。俺がもっとちゃんとした人間だったら、あいつを……柚希を一度だって悲しませることはなかったんだ」
駒浦は黙ったままだ。それでいい。聞いても聞かなくてもいい。これは俺の戯れ言なのだから。
「俺はお前が羨ましかった。お前みたいな奴に、なりたかった」
交錯するお互いの「希望」。それは自分の暗い影を見つめて見つけた、しかし俺たちには手に入ることのない光だった。そんなことでけんかして、何になる? こんな言い合いをして、誰が得をする?
あいつは、柚希はどんな顔をする?
俺は話すことをやめた。手に入れられないものを惜しむ気持ちを分かち合ったところで、結局手に入らないのだから。ただ、こいつみたいな奴が俺のことを羨むなんて間違っている――それだけは思った。
「だから……俺みたいな奴を羨んだりするな」
駒浦がようやく顔を上げた。
「勝者の余裕だな。いくらでも言え」
いつも通りの皮肉だ。笑顔が少々様になっていないが、それはそれで面白かった。
「もう、帰るか」
「そうするよ。……あーあ、授業さぼったの初めてだなぁ」
駒浦が勢いよくジャンプして、俺の先を歩き始めた。袖で顔をこすっているのを見て、その足取りの意図が少し分かった。
去り際にふと脳裏に浮かんだ顔があって、俺は先を行く駒浦を呼び止めた。
「お前を思ってる人はもっと近くに居る。余計なお世話かもしれんがな」
それは、仁岡の顔。歩みを止めた駒浦は、言葉を探しているようだった。
「ああ、そうだな。分かってるよ」
ほんと、近くに居てくれるんだ。そう呟いて、振り返った駒浦は寂しそうに笑った。