あかりがまぶしい
02
 甲子園とかを見ていると、豪勢な応援が目立つ。しかし、無名の中学同士の練習試合の応援なんて想像通りたかが知れていて、聞こえてくるのは相手チームの野次ばかりだった。私は残念な気持ちを隠せなかった。
 昨日弟にあんなことを言われて、正直あまり眠れていない。それよりも、弟がちゃんと眠れたかどうかの方が気になる。弟は早朝にも関わらず、あくまで普段通りに家族一番に家を出た。
 そういえば、家を出る前に弟が、

「姉ちゃん、今日応援くんの?」

 と聞いてきた。行くよ、と簡単に答えたら、

「ふうん」

 と、これまた簡単な返事しか返って来なかった。私が応援に行くと何か不都合でもあるのだろうか。様々な心配が今も頭をよぎる。
 私は両親と一緒に観戦用テントの最前列を占めていた。日焼け止めも帽子も完璧に装備してきたけど、今日の日差しは今週一番の強さだ。頬の高いところがすでに少しピリピリしてきた。
 帰るときはいつも制服姿なので、弟のユニフォーム姿をこんな距離で見る機会は数えるほどしかない。ピタリとしたアンダーシャツの少し高い襟が、日に焼けた細い首筋によく似合っている。周りのチームメンバーよりも身体の線が細い弟は、家族の中での存在感とはまるで違っていた。ユニフォームの汚れ具合は同じくらいなのに、どこかよそよそしく感じる。
 弟のチームのユニフォームは、白を基調に薄緑がかって爽やかな色合いをしている。準備運動中、背中にナンバーのついていない選手が弟に走りよって何か耳打ちをしたのが見えた。その様子を見ていると、一瞬だけ二人が観客席の方に目をやった。

(私の方を見た……?)

 家族の応援に気付いても、そんな素振りをちっとも見せずにチームメイトを追い返す様子は、弟らしいと思った。私を見たような気がしたのはきっと、気のせいだ。




 試合は頭から投手戦の模様を見せた。弟は下位打線、最初の打席がやって来たのは三回まで待ってからだった。まずは誰かが出塁しなければ点は入らない。チームを応援する誰もがそうと思っていながら、その第一走者がなかなか出ないでいた。両ピッチャーは投球数を重ねるたびに調子が上がり、綱引き状態どころか誰も綱に触ってさえいないような試合に、場はどこか緩んだ雰囲気が消えない。
 向こうのチームの親が連れてきたらしい小さな赤ちゃんがぐずって奇声をあげ始めた。するとベンチから応援に混じってクスクスと笑い声が聞こえた。そちらを見ると、選手のバットやヘルメットを手にスタンバイしている選手二人が、顔を見合わせて赤ちゃんの身動きの一つ一つにからかうような笑みを浮かべていた。もう、こんな試合……。
 カァン、と乾いた金属音が観衆の視線を集めた。おぉ、というどよめきに押されて弟は一気に一塁に駆け出す。先程までの弛んだ空気は一掃され、赤ちゃんの声は歓声に消えた。弟は二塁で止まり、応援ベンチに向かって片手を軽やかに振った。
 時が過ぎゆくのも忘れ、しかし試合は終わりに向かう。中学生の華奢な身体を、刻一刻と疲労が襲う。
 そして試合は終了した。弟を置いて私たち家族は先に帰路につく。

「あいつも疲れただろう。なんかいいもの用意してみんなで食べるか」

 父のその笑顔に私は、言葉もなく頷くことしかできなかった。




 紫外線でヒリヒリと痛む肌に、ぬるめのシャワーが心地よかった。汗でベタついたところも、石鹸で優しく撫でればたちまちうるっとした肌に戻る。ゆっくりと湯船に浸かってからドライヤーで髪を乾かすと、頭のてっぺんの辺りがきしきしと指に絡むような気がした。
 部屋に戻ると、弟はさっそく寝息をたてていた。静かにドアを閉めたら、んぅ、と弟が低く呻いた。しばらく様子を見ていたが寝ぼけていただけだったらしく、それ以上の反応は寝息だけだった。

「お疲れ様」

 あどけない寝顔にそう声をかけて、私はカーテンを閉めた。背中合わせに布団に潜って眠るこの日常は、私が大学に進学してこの家を出れば無くなるだろう。そう思うと、眠ってしまう時間さえ惜しいと思ってしまう。
 弟の鼻をすする音が聞こえた気がしたけど、ああ、起きてたんだと思うに留まって、私はただ身動き一つ取らずに眠気の訪れを待った。しかし同じ部屋にいる気まずさと一人にさせなくて済む安心がごちゃ混ぜになって私を眠らせない。
 誰よりも頑張った弟が、どうして布団に小さくくるまって声を圧し殺して涙しなければいけないのだろう。弟のそんな姿が見たくて今まで応援してきたわけじゃない。下校時刻に合わせて高校を出てコンビニで待っていたのも、制服姿で並んで歩いたのも、楽しそうな弟を見るためだった。試合には必ず勝ち負けはつく。わかってるけどでも、今日という日は理屈が通らない。
 幼く懐かしい日々の記憶の中で、弟が泣くときはいつも、私も泣いていた。泣いている弟を見るのが悲しくって、慰めるという手段を知らない私は一緒に泣いてあげることしかできなかったんだと思う。昔からあまり泣かない子だったけど、悔しがりなところは姉弟そっくりだった。たとえ転んでも、弟は泣きながら立ち上がった。そうして弟は成長していったんだ。その脇で、私ばかりが今でも幼いままなのかもしれない。そう考えては、目の端から流れる涙が耳を濡らした。
 あなたは泣かなくていい。よく、頑張ったね。素直に褒めてあげることも慰めあげることも出来ないこんな姉で、ごめんね。
 きっとまた明日がやってくれば、弟は部活に勤しむ日々に戻る。時間の力で今日の日が引き伸ばされて、その日常に薄まってしまえと願った。




「よっぽどくやしかったのね、この間の試合。全然あの日の話しないもん」

 朝は弟の方が早いので、私が朝食をとる頃にはもう登校して家にはいない。ふんわりと焼かれた卵焼きの皿を私の前に出しながら、母が唐突に話始めた。

「そりゃあ、二年生ただ一人のスタメンだったもんね、試合前の夜にも色々言ってた」

 喋りながら頬張った焼き鮭が口の中でモソモソと崩れる。

「そうなの? てっきりあんたにいいとこ見せられなかったから凹んでるのかと思ったわぁ」

 思いがけない母の発言に、私は吹き出して笑った。

「なにそれ、根拠もなく」
「根拠もなにも、だってあの子、試合の日の朝何回も私に『今日姉ちゃん来る?』って聞いてたんだから」

 母の言葉に「ふうん」と返すことしかできなかった。ただ、どうしても顔の筋肉が緩むのを我慢できない。

「ごちそうさま」

 私は、母から自分の顔が見えないように少しうつむいて、洗面台に急いだ。




 一日が終わるのが、今日はやけに早く感じる。気づいたら私は中学のグラウンド脇を、ファミレス方向に歩いていた。相変わらず、律儀に制服を着た弟を見つけたとき、胸の奥がくすぐられたような気持ちになってしまって立ち止まれなかった。

「うー、お待たせ」

 重い声は、いつの間にか低く落ち着いている。

「大丈夫、今来たから」

 二人で歩き出すと、ひそひそと声をひそめながら私たちの脇を通りすぎる薄緑色のユニフォームをまた見かけた。私も弟もそれを全く意に介さなかった。

「まあ、また次に頑張るよ」
「そうね、また見に行くかも」

 そう私が答えると、弟はいつもの調子で「ふうん」と答えた。でもその明るい表情を、私は見逃さなかった。
 ……へぇ、そんな顔してくれるんだ。
 私も思わず口元を気にする。私は弟よりもずっと素直じゃない。

「帰り、飴買ってきていい?」

 切らしていたストックのことだろう。断る理由はない。
 私もたまには甘い飴を食べようかな。それを頭が欲するほど、それを心から美味しいと感じられるほど、何かに打ち込んでみたいと思った。

「ま、この前みたいに晴れたらだけどね、見に行くのは」

 弟が合わせてくれる歩調に甘えて、夕日と共にゆっくりと寄り道を楽しんだ。


【了】

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