あかりがまぶしい
01
 カァンという金属音の響きを頼りに歩こうと思えばできなくもない、そんな小さなこの街に住んで大分経つ。街が小さいから、学校の数も自ずと少なくなる。
 高校に入って部活に所属しないことを決めた私には三つ年下の弟がいて、自分の母校でもある中学のグラウンドの脇を通って帰路につく。ユニフォームに身を包んだ少年たちがくすんだ白球を追いかけているのが見えた。

「次、6―4―3!」

 コーチがバットから繰り出す打球が、まっすぐに弟に向かっていくのが見えた。打ち出された瞬間を見極めて前進し、左手のグラブを器用に扱いながら隣のベースにひょいとボールを運ぶ。スパンと一塁手にボールが返ってくるのはその1、2秒後だ。

「ラストぉ!」

 さっきよりは少し軌道の逸れた打球が放たれる。精一杯全身を伸ばした、グローブの先が打球に追い付いた。持ち直されることなく放られた球を素早くセカンドが処理して忽ちファーストミットに収まる。

「っざーっした!」

 見渡すほど広いグラウンドに比べれば少年たちはずっと小さくて、それでも一人一人の立ち居振舞いが機敏であることは一目で分かる。




 校門から少し離れたファミレスの前で弟を待っているのがいつもの帰りの風景だ。右手側の遠くから学生服を着こなした少年が歩み寄ってくる。ユニフォームのまま帰る少年たちも少なくないのにわざわざ制服に着替えるのは、汚れた姿で街を歩くのが単に嫌だからだそうだ。信念を曲げないというか、頑固なところは、やはり姉弟で似ていると自分でも思う。

「遅い」
「悪い」

 離れて並んでも、大分身長を越されてしまったのが分かる。いつから、という明確な記憶はないけど、弟を見上げるのにもそろそろ慣れなくてはならない。

「練習は順調?」

 その質問にはまーね、と簡単に答えて、弟は自分の話を始めた。

「俺、今度スタメンなんだってさ。絶対負けたくねーなー」

 弟は昔から話をするのが好きだ。中学に慣れはじめて言葉遣いが前より粗っぽくなったけれど、それでも弟の話は分かりやすい筋道を通って私の耳にスムーズに届いてくる。それはバックホームのように鋭くもあり、中継のように適切な見通しを持ったボールのようだ。

「急にコーチに呼ばれたからちょっとびびっちゃったよ。正式にみんなに話すのは明日だって」

 野球部の先輩が一人怪我をして、その代わりにスタメンに弟が入った。元々守備の上手さに定評があった弟は、実力を買われてショートで守るらしい。

「いなくなった分を俺で埋めたから負けたって、誰も思わないはずないもん。俺だけが結果を残せたって、試合に勝たなきゃ意味ないよ」

 中学から自宅の方へと歩くうちに、私たちの不自然な距離感は消えていた。この歳になって姉と一緒に帰ることに何も思わないのだろうか、学校から離れるにつれ口数が増えていくのは、学校から離れるまでずっと友人に見つかるかもしれないと気を張っているからなのではないか……などとと思いはするが、弟が何も言ってこないので私も口には出さないでいる。
 他人のふりをすればたぶん誰も私たちが姉弟だとは思わないと思う。私が父に、弟が母によく似たので不思議なことではないが、たまに似ているところを探そうと弟の顔をまじまじと見てしまう。弟はそれを少し鬱陶しがる。
 それが実は、少し楽しかったりする。




 帰ってくると、弟は母にさっき私にしたのと同じ話をした。自分の守備の上手さが評価されてショートとして次の試合に起用されること、今日の練習の最後に監督に呼び出されてそう告げられたこと。弟は特にその事を強調することを忘れなかった。一方私は、期待されていることを嬉しいと感じるようになるのは何歳からだろう、そしてそれを初めて辛いと感じるようになったのはいつ頃だったろう、と考えていた。
 父が会社から帰ってきたときも、夕飯を囲んで弟は同じ話を繰り返した。感心する父の脇で母はにっこりと微笑ましそうに同じ話を聞く。実際にその場にいて、帰り道に同じ話を聞いていた私は正直少し飽きていた。
 弟は運動もそつなくこなすし、学校の成績も悪くない。いや、悪くないどころかとてもいい部類に入る。私も成績は悪くないが、運動神経はさっぱりだ。両親も誰に似たのだろうと苦笑いさえ浮かべるほどだ。本人いわく、勉強と勉強の間に野球を挟みこむ今のペースがいいんだそうだが、その体力には弟ながら尊敬さえ覚える。

「他の人よりも効率よくストレス発散できてるからじゃね? なんで出来るかなんて聞かれても俺はやることしかやってねーから」

 運動だけできるのって、ちょっとカッコ悪いしなー、と弟は笑った。そういう価値観は姉弟そっくりだ。私も、それなりの功績を残している訳でもないのにスポーツが出来ることだけを自分の魅力にしている人は苦手だし、勉強と運動のどちらかを選べと言われたなら、勉強で自分を磨きたいと思う。弟のように要領よくはいかなかったけど、それでも自分のペースは保てているし、スポーツだって見ている分には嫌いじゃない。
 姉弟の部屋は、6畳を厚いカーテンで仕切っただけの、つまるところ、一部屋だ。上のカーテンレールも、私が中学に上がるまでは存在していなかった。二人で部屋に入ると、がさがさと机をまさぐった弟が声をあげた。

「あー、飴切らしてる。姉ちゃんストックない?」
「フルーツ味でよければ」
「いいよ、それで。さんきゅ」

 二つ投げた小さな飴を左手で器用に受け取ると、ペリッと包みを切って一つを口に頬張った。リュックサックから参考書を取り出しているのを見て、今日の宿題を片付けるつもりらしいと分かった。
 私たち姉弟は飴を常備するところも似ている。似ている、というか、中学でその習慣がついた私を見て、弟が中学に上がる際に真似しだしたのだ。よく飽きないなと思うけど、自分だって口が寂しくなれば封を開けているし、人のことは言えない。
 弟は抹茶とかキャラメルとか、ガツンと甘ったるい味の飴が好きみたいで、私がいつも食べるフルーツ味の飴を好んで買ったりはしない。「フルーツ味って後味がちょっと酸っぱい気がするんだよね。せっかく糖分補給するのに損した気分になるじゃん」と以前言っていたのを覚えている。私は舌に残る程の甘味が逆に苦手で、甘酸っぱいくらいの爽やかさを求めて選んでいる。王道の味なら大袋を安く買うことも出来るから、ついそちらに手が伸びる。
 些細なこととはいえ、同じ血を分けてそれでもどこか違う弟を見ているのは、やはり「楽しい」のだ。




 私の高校進学と弟の中学進学はちょうど重なる。卒業して高校に身をおいて初めて、男の子にとって中学生は不思議な時期なんだなあと感じるようになった。1、2、3年生の体格はそれぞれ全く違うし、何も気にしない時期から不必要に全てを気にする時期、そして自覚が芽生える時期をみんな経験していくんだろう。
 団体の中で結果を残すことを目指し、自分自身も努力して成績を残す。弟の中の何がそこまでのモチベーションを生み出すのか、私はいつも不思議に思っていた。そんな弟を、いつも羨ましいと思っていた。他方、中学二年にもなって、未だに学校から家までの道を私と帰るのをやめない弟のことも、私の狭い心に引っ掛かかる。友達とか彼女とか、そういう他人との深い仲が育つ時期だ。私も人のことは言えないけれど、だからこそ弟には気を使ってほしくはない。
 大事な試合も、あっという間に次の日に近づいた。力のつくものを、と張り切る母をいさめて普段通りのメニューを作らせ、今日は家族全員で早寝をしようという父の提案には全員が賛成した。どうせ明日は土曜日だ、今日一日勉強時間が短くなったところで支障はない。
 長めの風呂に浸かった弟が部屋に帰ってきた。野球部はドライヤーが要らない。昼と何も変わらない頭で、弟はさっさと布団を敷き始めた。

「脱水とか熱中症には気を付けてね、怪我したら意味ないんだから張り切りすぎないこと」

 うーっす、と適当な返事に私は心配さえ覚える。そんな私を尻目に、てきぱきとした手つきは布団を敷き終えてしまい、弟は布団に潜ってしまう。

「ベストしか尽くせないよ、おやすみ」

 電気も消していない明るい部屋で、弟は身体を横たえた。こうなっては私も就寝せざるをえない。敷き布団から敷き始め、カーテンを引いて消灯する。

「頑張って。……おやすみ」

 明日は少し気温が高いらしい。少し早く起きて水筒は大きいものを用意してあげよう、と思って目を瞑った矢先だった。

「頑張ることしかできねぇよ、今までだってそうだったんだから」

 寝言かと思った。でも、こんなに筋のとおった寝言は聞いたことがない。

「いつも姉ちゃんが俺の先を歩いてた。俺は姉ちゃんの後ろをついて歩くだけで良かった。姉ちゃんが応援してくれるってだけで俺は、なんでも頑張れたんだ。
 姉ちゃんみたいになるのが俺の目標なんだよ。昔からそうだ、今だって変わらない。俺は姉ちゃんと並んでいたかっただけなんだ」

 俺が姉ちゃんに追いついたことなんて、今までで一度もないもんな――そう続ける弟の声は、誰の手も借りずに自分の足で立っていた。

「ごめんな、俺みたいなのが弟で」

 私が何も言えないでいたからか、おやすみ、という言葉を最後に弟は話すのを止めた。
 突然何を話すのだろう――話の内容を飲み込むので頭が一杯で、状況が理解できない。今、何が起きているの?

「ねぇ、部活でなにかあったの? 何か言われたの?」

 私の質問には、ごそごそと寝返りの音だけが返ってきた。何かあったに違いない。弟は嘘がつけない奴だから。そして心当たりは無くもない、それは私も気にしていた事だから。
 弟が私に憧れている。私なんかを尊敬していた。どんな角度から私たち姉弟を覗き込んでも弟の方が秀でているのに、弟が尊敬しているのは私なのだという。
 いつもならものの十秒でカーテンの向こうから聞こえてくる小さなイビキも、どんなに耳を澄ませても聞こえなかった。もしかしたらいなくなったのではと思うくらいに隣は静かで、私は明るく射し込む満月の明かりをその夜の心の頼りにした。

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