ついこのあいだ花をつけたかのように思っていた庭の李の木の枝に、いつの間にか実が生っていた。塵のような白い果粉をつけた、青く小さな卵形の実。それも、枝にはもはや数えるほどしか見えない。貪欲な栗鼠と小禽と雀蜂のわずかな余りもの。そのひとつをもぎ取り、袂で拭いてかじりついた。少し傷みかけた果肉から溢れた果汁が、指の先を紅の色に染める。それを見て、おまえは言ったものだ。

「血まみれでございますな、曹丕殿」

 笑みを含んだおまえの顔のうえには、雨上りの雫を結んだ李の細長い葉むらごしに、晩夏の光があわあわと青ずんで揺らぎたっている。

「お前も食べるといい。甘いぞ」

 露にぬれた果実を差し出してやれば、恭しげに両袖を揃えて出す。

「では、ひとつだけ頂きましょう」
「きっとひとつでは済まぬぞ」

 おまえは静かに笑って首を振る。いちど甘露を味わってしまえば、次々に手を出さざるをえなくなるものと知らぬはずではないのに、往生際の悪いことだ。――それとも、栗鼠や小禽の食べ残しを貪るなど、おまえの矜持は許さないのだろうか。
 受け取った果実を、おまえはうすい唇へあてた。そのまま、果実の柔毛がふれる感触を確かめているのかと思いきや、鋭利な犬歯がひらめき、青い実に突き立った。
 破られた果肉は深紅の色をのぞかせ、腐敗の一歩手前であるような、爛熟の香気を放っているのだろう。おまえは果汁がこぼれるがまま、それが幾すじも手を流れ落ちるのを許している。血のようなその赤を。

 「……なるほど、美味でございますな」

 と言ったおまえの表情は穏やかで、このうえなく怜悧に涼やかで、青い水をたたえた底なしの静謐な水面のようで、それでいて仮面でしかない。
 甘い蜜を、おまえは音を立てて啜り取った。繊い指がじっとりと紅色に濡れて、まるで獲物をとらえた猛禽の爪のようにも見えた。淫らな指だと、思った。









 朝のうちには晴れるかと見えていた空はすっかりと厚い雲に翳り、やがて中庭の木々の姿も煙らすほどの白い雨脚が地を洗いはじめ、薄暗い室内での執務に見切りをつけた曹丕は筆を抛った。半ば、こうなることを期待していたといってもいい。
 回廊に出ると、すでに無数の燈架に火が入りはじめている。遅ればせながら魏王の公子のもとへ火を運んできた従者が、室の前で平伏せんばかりに恐懼していたが、曹丕は軽く頷いて赦しを与え、燈りを受け取るとすぐに踵を返して、丞相府の一画へと足を急がせた。
 そうしてたどりついたのは、文官たちが執務を行う大部屋だった。すでに、大量の燭に明かりが燈されている。その入口に、紋様を透かし彫りにした丸い鉄燈籠を提げて、曹丕は立った。耳を聾さんばかりの雨音と、夕刻でもあるかのような薄暗さの中、大勢の文官が、それぞれの仕事に没頭している。
 揺れる燭火のもと、曹丕の求めた顔は、すぐに見つかった。どこにあっても、目についただろう。
 突然の公子のおとないに気づいた文官たちがざわめきたち、慌ただしく礼を取る中、曹丕はつかつかとそちらへ歩いて行った。

「仲達」

 名を呼ぶと、奥で、際だって白い顔が上がる。
 そう、どこにあっても、彼の姿はいやおうなしに目を惹いた。美貌なのだ。薄暗い森の奥にひそと息づき、踏み込んだものの足を知らず竦ませる白い不吉な毒花。

「これは曹丕殿。このような場所へおひとりで、先触れもなしにおいでになるとは」

 慇懃な礼容がこのうえなく似合う男であった。わざとらしいほど丁寧な所作で几案をよけて膝をつき、拱手のために持ち上げた袖のかげで、恭しく伏せられた睫毛が女のように長い。

「なに、ただ通りがかりに立ち寄ってみたまでのことだ。先触れなどと仰々しい真似はせずともよかろう」

 我ながらしらじらしいと思う嘘を吐きながら、司馬懿の袖に促されるまま曹丕は上の座へついて、燈を置いた。足下へすぐに司馬懿が侍る。その顔が渋い色をにじませているので、曹丕はわずかに首をかしげる仕草で問うた。

「どうした?」
「……あなたがおいでになると、務めが滞りますので」

 声音までもしぶく、司馬懿は横目で大量の燭ばかりが揺れる、ひとけのない広間をしめした。鉄面皮の公子のおとないを知った他の文官たちは水がひくように一人、また一人と席を下がり、彼らはいつの間にか二人きりであった。
 曹丕はまるで今気づいたとでもいうように視線をめぐらせた。

「なんだ、みな気を利かせて雲隠れしたわけではないのか」
「そんなはずがありますまい」
「ならば、存分におまえの顔を見ていられるわけだな」
「……ご冗談を。何かお話がおありなのでしょう?」

 聞かれようによっては、きわどい会話だが、二人とも充分に声は低めている。屋根を乱れうつ雨音にまぎれて、お互いの耳にすら届くか届かないかといった囁きではあったが、それでもあくまで色めいた態度はおくびにも出さず、口先だけの睦言を交わすことはおたがいに慣れたものであった。

「別に話などはない。ただ、お前に会いたかっただけだ」

 正直に言い放つと、司馬懿は大仰なため息をついた。困った相手だと言いたげなそのまなざしは、臣が主にむけるものとは思えぬ強い色をみせていたが、それすらも曹丕の眼にはたまらないものに映る。
 その美しく礼にかなった従順な挙措に紛れがちだが、司馬懿のまなじりはほとんど猛々しいまでの色を持っている。しかしそれは陽性の、外へ向かってゆく猛々しさではない。まるで庭園の百花にまじって隠然と咲く鳥兜のような、青水の底にひそかに謐もる美しい水銀のような、みずからの毒の価値を識っているがゆえの、優雅で、隠黠で、そして強靭な自負。
 眼の縁へ、その毒をわずかに滲ませて、司馬懿は白い片頬を曹丕にむけて窓の外を見やった。

「ならば、もうご用事はお済みになったわけですな。本日の執務も終えられたならば、この雨模様です。御邸でお休みになられてはいかがか」
「ふ、相変わらずつれないことだな。ここが官房でさえなければその口、ふさいでやるのだが」
「……滅多なことを仰せられますな」

 司馬懿はふりむき、つと身じろいだ。衣擦れの音がさやと鳴った。雨音のなかで、そのかすかな音がはっきりと耳に届くほど、わずかの間に曹丕は司馬懿に身体を寄せていた。

「曹丕殿、ここでは、」

 なりませんと吐息のような声がもれて、制止の指が曹丕の腕に触れる。かまわずその削げた頬に口づけを落とそうとした曹丕の目に、司馬懿の形のよい耳殻が映った。その芯の固そうな、そこだけ生娘であるかのように淡く色づいた耳朶を噛みちぎってやろうと、なかば本気で思ったのを、司馬懿は敏感に察知したようにすばやく身を引いた。

「……どうやら、悪心を起こされましたな」

 驟雨に降り込められた薄暗がりに、燭の火を反射して琥珀色の目が不穏な金色に光る。睨みつけられた曹丕は、口端だけの微笑で答えた。

「ふ、無体はせぬ。この先も長く知恵を絞ってもらわねばならぬお前に、愛想を尽かされてはたまらぬからな」

 そう言いながらも、今すぐ目の前の男の頬を張って、乱暴に床へ引き倒し、無理矢理に言うことをきかせてやりたい衝動を曹丕は抑えていた。ここが官房であることを、もどかしくも有難く思う。姿は見えないとはいえ、室のそとにある数多の耳目を忘れ去ることはさすがにできなかった。
 そんな曹丕の「悪心」に、今度は気づいているのかいないのか、司馬懿はふたたび美しい拱手のかげにかんばせを隠して礼を取った。

「身に余るお言葉。……なれど、私の代わりなどいくらでもおりますでしょう。あなたの執着に足るような才であればよいとは、つねづね思っておりますが」

 しらじらとした言葉さえ、渇きに注がれる甘露めいて響くようになったのはいつからだったろうか。
 床に置いた燈籠の小さな火が、尽きる寸前の烈しさでゆらぎはじめていた。その燈火をうけてなお濃い司馬懿の睫毛が、秀麗な目許に翳りを落としている。言葉ではへりくだってみせながら、心では傲然と笑みをたたえているのが見えるようだった。
 まるで獣だと、曹丕は思った。この、無骨なところのあまり見当たらない、嫋々とした肢体と完璧な礼容をそなえた男に、そのようなことを思うのがわれながら不思議であったが、決して手なずけられぬ誇り高く華やかな獣を見るように、曹丕は、その傲慢を美しいと思った。

「お前しかおらぬ。信じられぬか、」

 言いながら、今度は性急に距離を縮めることはせず、曹丕はそっと手をのばして司馬懿が下ろした袖のうちへしのばせた。冷たい指に触れる。その指は逃げることなく握られるまま、じっと動かなかったが、その冷たさは、まるで鋭い鉄の刃先を握っているような錯覚を曹丕に起こさせた。

「……そのわりにはいつも、随分ななさりようですが」
「ほう……私が、何をしたと?」
「言わせるおつもりですか」
「ああ。聞かせてくれぬか、仲達」
「……っ、」

 ついと目をそらした司馬懿の頬に色が差す。おそろしく傲慢で、曹丕より八つも年嵩なくせに、色事にだけはいつまでも奥手な羞らいをみせるそのまなじりに、もう一度、口づけをこころみようかと曹丕は思って、思うだけにとどめた。
 司馬懿がもう抗わないだろうことはわかっていた。だが、ここは官房であり、姿は見えないとはいえ外には数多の耳目があることを忘れるわけにはゆかないのであり、つまらぬ躓きで家督争いから落伍する自分になど、この男はなんの価値もみいださないであろうということだけが、いまの曹丕にとって確かなことなのであった。
 袖のうちに隠れた手の甲を、指先でいとおしげに撫でながら、冷たい膚に、この胸に燻りつづける熱がうつればいいと希いながらも、だから曹丕はひそかな自嘲だけを唇に残して、告げた。

「お前だけだ。……ともに同じ覇道の先、見定めているであろう者はな」

 指の中で、冷たい刃先がざわと蠢いたような気がした。
 司馬懿は無言のままゆっくりと首をめぐらせ、曹丕の瞳をひたと見据えた。

「……ならば。なおのこと慎まれよ」

 その大志、軽々に忘れ去ってよいものではありますまい。小声ながら、確乎とした声音で断じた司馬懿の瞳の奥で、じっと謐もる毒が燠火のような熱い毒に変わるのを、曹丕は見た。
 司馬懿の従順さが仮面にすぎないことを、おとなしく自分に従っている理由を、曹丕は誰よりもよく知っている。曹丕の才器にかげりを見れば、司馬懿はこの首を奪うことをためらわないだろう。その一点で、決して司馬懿は曹丕を裏切りはしない。
 その確信は曹丕を喜ばせた。それは緊密で、明確な契りだった。ほとんど肉欲の確かさにも似ていた。――うつろいやすい愛恋という感情、義などという不確かな絆にくらべて。

「忘れるものか」

 握りしめた白刃で、みずからの五指を切り落とすような戦慄を覚えながら、曹丕は目を細めて微笑ってみせた。すると、かえって司馬懿のほうが、うろたえたように長い睫毛を瞬かせる。まなじりに滲んだ毒に、ふと甘やかな色が差し、その色は言葉に流れた。

「……お忘れなきよう。私とて、あなたの覇道の先を見たいのです、曹丕殿」

 こうした時に、先に折れてみせるのは、いつも司馬懿のほうだった。わりない仲になっていながらも、口さがない者たちに鷹視、狼顧と謗られる用心深さでもって、こういう矩だけは超えないのだ。
 燈籠の火が燃え尽きて、膝下がふと雨の午後の暗さに沈んだ。
 突然、離された手に、司馬懿が怪訝そうに眼を上げる。

「曹丕殿?」

 その薄い唇に、甘やかな言葉をどれほど投げ与えて欲しいか知れなかった。だが曹丕は、あくまで軽口のついでとでもいうように告げた。今夜、おまえのもとへ忍んでゆこう。





李下恋闕 2


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