――今夜、忍んでゆこう。


 曹丕のその言葉は、いつも、軽口のついでとでもいうように告げられた。
 それに司馬懿は、「どうぞ」と答えてきた。どうぞ、お待ちしております。その答えに対する曹丕の言葉も、いつも同じだった。

「どうせ、錠をさしてあるくせにか」

 そう言って薄く笑うのだった。
 その日も、いつもと同じだった。曹丕は、いったん離した司馬懿の手をふたたび取って立ち上がらせると、有無を言わせぬ態度で房から連れ出した。
 回廊の外では、天の堰を切って落としたかのような雨脚はやわらいでいたが、相変わらず細い雨糸が沛然と降りつづけている。振り返りもせずに歩いてゆく曹丕の背中に、臣として許された距離を保ちつつ従いながら、司馬懿はどこへ連れてゆかれるのか、そこで何が待っているのかを、まるでどこか他人事のように胸裏に描いていた。
 そうしていくつもの回廊をめぐった先で連れ込まれた小さな房には、人の気配が絶えて久しい様子がありありと窺えたが、かつて誰かの執務室に使われていたらしく、几案の奥に仮眠をとるための小さな寝台が置かれていた。どこから持ち込まれたものか、施されたひどく流行遅れの意匠が示す通り、ずいぶんと古びていて、きっと大きな音を立てて軋むのだろう。そう思っただけで、司馬懿は顔を赤らめた。
 曹丕は室の扉へ後ろ手に錠をさして、そこでようやく司馬懿を見た。そうして、その寝台に入る間も惜しいというように司馬懿の身体を引き寄せると、慌ただしく口中を契った。

「んッ……ふ……、」

 さしこんだ舌を一瞬絡め合わせ、すぐに唇を離した曹丕が無造作に衿元をくつろげると、高雅な薫物の匂いが立ち、まぎれもない若さに艶めく、逞しい胸があらわになる。
 粗野で露骨で、野蛮とすら思える若い欲望をつつんでいる、その肉体の完璧な美しさは、それ自体が倒錯的ですらあった。そして、その齢からは考えられぬほどこなれた愛撫ひとつひとつの、信じがたい巧妙さ。これ以上ない羞恥でけがされながら、その恥辱がおそろしいほどの快楽を生むのを、幾度味わったことだろうか。

「仲達、」

 小さく名を呼びながら、曹丕がふたたび唇をかさねてくる。その冷淡な姿と裏腹なまでに激しく、催情に長けた唇に、頭の芯まで痺れかけながらも、司馬懿はときおり、横目で室の扉を窺い見ることを忘れられなかった。
 扉は、錠が守っている。扉は錠が守っているが、もしも強くひと押しされれば。屈強な男の足でひと蹴りされれば。そうなったら、自分たちはどうなるのだろうか。
 堅牢なはずの扉が薄氷でできているような気さえする。司馬懿は身をよじらせたが、曹丕の強い腕はそれを許さなかった。
 薄暗い室内に、雨音と、息遣いだけが聞こえる。大きな音をたてないように苦心して、お互いの衣服を解き、肌をさぐりあった。――なぜ悦びは、こんなにも苦痛と、そして恐怖に似た音を立てるのだろう。まるで傷を負わせあっているかのような。

「曹丕ど、の」

 曹丕の手が伸びてきて口をふさぐ。司馬懿は舌先を幾度も滑らせ、汗にぬれた掌の塩辛い味をほとんど陶然としながら味わった。曹丕が吐息だけで笑った。
 曹丕の空いたもう片方の手が下肢の奥に滑り込んでくる。兆しかけているそれに指が触れる。ほんとうに、ひと撫でで充分だった。それだけで司馬懿は自分の分別が屈服させられたのを悟った。芯が通りはじめたところを握りこまれると、もはや取り繕うことなど不可能だった。
 そのままさらに奥のほうまでさぐられて、本能的にこわばった司馬懿の下肢を、曹丕は片手だけで性急に、しかし決して手荒くはせずに開いていった。いつの間にか唇を割ってさしこまれているもう一方の手の指を、噛んでしまわないように舐めあげながら、やがてあたりに香油のにおいが漂うのを司馬懿は感じた。

「あ、んぅ……っ」

 本来なにかを受け入れる場所ではないそこは、油のぬめりと曹丕の長い指で何度も開かれ、馴染まされて、やがて貫かれた。本来なにかを受け入れる場所ではないのに、司馬懿のそこは曹丕を易々と咥えこみ、これから与えられるであろう快楽の端緒さえ確かに拾って、腰を跳ね上げさせた。
 そのまま息をつく間もなく揺さぶられると、想像した通り、古びた寝台は派手な音をたてて軋んだ。だが、素肌を晒したあられもない姿で、身体のもっとも柔らかく恥ずかしい場所を許しているのだという羞恥と、同時に与えられる快楽の壮烈さに、その軋り音を危ぶむ意識はいつしか掻き消されていく。
 いつもそうだった。曹丕との、まるで獣のそれのような情交でもたらされる快楽は、司馬懿に慎重さをなげうたせた。それは怖ろしいことであったが、あらがうことなど到底できなかった。自分の中にこれほどの淫蕩の気がひそんでいることを、司馬懿はこの年下の男に教えられたのだった。

「仲達……っ、」

 熱く濡れた吐息で名を呼ばれながら、下肢のすべてを荒々しい男の動作でひらかれ、責めぬかれて、陥落は易々と訪れる。

「…………ッ!」

 曹丕の掌のなかで司馬懿は声をあげた。歓喜と恥辱にしっかりと塗れて。
 ――こういうことをいうのだろう、囚われの身というのは。









「今夜も会いたい。いいな?」

 いつも、軽口のついでとでもいうように告げられるその言葉に、司馬懿は必ず、「どうぞ」と答えた。どうぞ御意のままに、曹丕殿。それを聞くと、曹丕はいつも満足げに微笑ってみせた。

「待っているぞ」

 司馬懿は自室の扉に錠などさしたことはなかった。それを知らない曹丕は、実は一度も司馬懿の臥所を訪れたことなどないのだ。
 曹丕はまだ汗の珠の光る肌に無造作に衣をかけただけの姿で立ち上がった。壮んな若さに驕る肩や腕はなめらかで、猛々しかった。寝台の上で、しどけなく乱されてしまった髪を結いなおしながら、司馬懿はその背を見た。
 初めて会ったとき、なんと美しい青年だろうと思った。容姿にも、才能にも、若者にはめったに授からぬ美しさと端正さを備えて、それを当然のことと受け止めているに違いない、冷たい硬質の相貌は、傷つくことなど知らないように見えた。歩む先へおのずから差し出されるすべてを、摘むも捨てるも自儘にすることを許されて、それが少しも生きる妨げにも、まして手負いなどには決してならない若者なのだと。
 その若者は、いつの頃からか司馬懿の前でだけ、覇道の先、ということを口にするようになった。
 それが何をさすのか、司馬懿は問い返すことはしなかった。大それた、恐ろしい考えだとも思わなかった。それは司馬懿の抱いている最善の考えでもあり、逃れ難く父の覇業を継ぐことになるであろうこの若者に、さらなる血にまみれて、眼の眩む白光にみちた砂漠を征く覚悟があるというのならば、傍らにあって輔翼となるのも悪くないと思ったのだった。
 だが、いつもひどく一方的な、まるで行きずりに余分なものを投げ与えでもするかのような交情は、司馬懿の誇りを傷つけたが、それでも憎むことはできなかった。憎むのは、彼の王者としての才がかげりを見せた時だけだろうと司馬懿は思った。その時は、すべてを奪いとるまでだと心に決めながらも、曹丕の姿は、いまだ信じられないような酷薄な美しさをもって、司馬懿をとらえて離さないのだった。

(あなたを、)

 あなたを思うとき、胸のなかをひとすじ、かがよい流れる蜜の河がある。澪をひいて、あなたへと向かう心がある。
 それが愛恋かと問われれば言下に否と答えるだろう。でも確かに自分は好いているのだと思う。その傲慢を、子供のような狡猾と残酷を、最後まで飼い慣らすことはできないであろう、そのどうしようもない孤独を。血まみれの心を。
 曹丕の前にそびえたつ白い砂のきざはしは輝かしく、影もなく、苛烈だった。罪を知りながらその砂上を、凋落を思いもせずに歩みながら美しかった。このように美しい男を、司馬懿は知らないのだった。

「――曹丕殿。お待ちください、」

 曹丕が素肌を半ばさらしたままで扉のほうへ歩いてゆくので、司馬懿は慌てて立ち上がり、後を追おうとしたが、短い時間とはいえひどく責めぬかれたせいで、まるで病み上がりのように力の脱けてしまった下肢が言うことをきかない。その様子に、横顔を見せてふりむいた曹丕が薄く笑って手を差し伸べる。衣を渡そうと腕をのばすと、不意に背を抱き寄せられ、うなじのあたりに唇がのった。さきほどまで熱く濡れていたのが嘘のような、燥いた唇だった。
 曹丕にともなわれて扉をくぐると、回廊のそとではいつの間にか雨が上がっていて、連翹の花の色をした陽光が厚い雲間から幾筋も射し始めている。
 雨後の庭はうっすら靄だって、そこかしこから熟れた匂いが立ちのぼっていた。そこへ司馬懿を連れて曹丕が降りると、靄は彼の爪先に裂かれたように分かれた。
 目の前で青く繁る李の細長い葉むらからは、雨が結んだ水滴の珠が白々と光って零れている。その葉の下には熟れた青い実が、重たげに枝を撓ませている。その実のひとつを、曹丕は無造作にもぎ取ると、白く浮いた果粉を袂で拭いて口に入れた。
 血のように赤い果汁がその放埓な指先を汚し、端正な口許を彩り、細い顎先へ滴り落ちるのを司馬懿は見た。熟れきった果実はそのようにもがなければならないのだと、蜜のしたたる果実へはそのように牙を立てなければ、うんと惨くそうしなければならないのだと、司馬懿は思った。

「おまえも食べるといい。甘いぞ」

 差し出された果実からは爛熟の香気が立って、鼻腔を誘った。
 熟れた李は甘く、人を思う心もまた甘い。ただ、人の心は李のようにかぐわしいとは限らない。
 手に渡った青い果実は、血のような果肉を隠している。知りながら、司馬懿は歯をたてた。溢れた深紅の果蜜をわざと舌を鳴らして舐め取れば、曹丕が笑った。おまえも血まみれだ、仲達。






李下恋闕



14/10/25 writeen by brief
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李の花言葉は「忠実」「貞節」「独立」
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