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 宴席の燈明から遁れ出た先では、あらゆるものが深い静寂に沈んでいた。
 すでに深更を過ぎた夜の重圧が、微醺をおびた体にむしろ快い。広大な庭に配された池にそそぐ清水のかすかな音、水面に咲き乱れる睡蓮の鋭い香気、そよぐ微風の愛撫、そういったものを感じていると、甘やかな眠気がいま自分の五官だけでなく、森羅万象にまで浸透しているような、そんな胡乱な心持ちがしてくる。

(馬鹿馬鹿しい……)

 司馬懿は胸腔いっぱいにぬるい夜気を吸うと、軽く頭を振って、益体もない感慨を意識の隅に逐いやった。
 背後では歓楽の声が熄むことを知らぬごとく続いている。
 隣席の人間には、先刻、宴のさなかに中座したまま戻らぬ主――曹丕を探してくると言い残してきたが、酩酊にまかせた喧騒の中とて、気に留める者もないだろう。そもそも、いみじくも魏公の息子である曹丕が、そっと広間の扉を抜けて去る姿に気づいた者すら、ごく少数であったように思われた。
 司馬懿は元来、宴席の賑々しさも、唇が燃えるような酒も、得手ではない。礼に悖ると承知しつつ、早々に引き揚げるために、おのれの主を口実としたのは確かだが、まるで逃げるように席を立った曹丕の様子が気になったのもまた、事実だった。

(お加減でも、悪くされたやもしれぬ)

 と思う一方で、詩作のおりは孤独をもとめる癖のある曹丕のことゆえ、一人きりで飲み直しながら、この美しい夜に浸っているとも考えられる。

(妃妾の室にでも行っていたなら、とんだお節介だな)

 それならそれで、憂いなく自分の邸に帰れるので、司馬懿としてはいっこうに構わない。
 そんなことを考えているうち、沓先は慣れた道すじを経めぐり、曹丕の居室へとたどりついていた。
 居室と呼ばれているが、実際には宮殿内に建てられた公子の邸である。他の建物と同様に広大な中庭に面し、雅趣のある姿を人工の池に映している。
 訪いを入れると、見慣れた従者が出てきて、夜分だというのに邸の主に伺いを立てることもなく、うやうやしく奥に通された。司馬懿にとっては常のことであるが、曹丕よりこれほどの厚遇と信頼を得ている臣は、彼をおいてほかにない。
 跫の響きやすい廻廊を、勝手知った裾捌きでそっと通り抜け、寝所に至る。
 壁に刳られた窓から仄かな明かりが洩れていることで、主は室内にあると知れた。だが人声はしない。楽の音も聞こえず、女が衣服に焚きしめる香の匂いもない。一人きりでいるのだろう。
 戸口の前に立ち、まず咳払いをしてから、司馬懿は控えめに声をかけた。

「……曹丕殿、」

 返事はない。

「曹丕殿、――仲達でございます、」

 名を告げ、応える声を俟たず、司馬懿は天井の高い、暗い部屋に入っていった。
 貴人の寝室にふさわしく調度の多い部屋である。空気が動いて小さな火があおられ、壁にゆらめく影が映るのを横目にしながら、司馬懿は注意深く、奥の様子を窺い見た。

「曹丕ど――」

 そして三たび呼ばわろうとした声は、半ばで途切れた。
 薄闇のなか、床几にもたれて、曹丕は睡っていた。
 燈火の赤い反照が、繊細な、だが決して惰弱ではないその彫りの深い貌に、どこか野蛮な彩りを添えている。
 くつろげられた衿元からのぞく逞しい胸には、間違いなく若さが息づき、薄闇に艶を帯びてほの白く浮かびあがっていた。
 まるで彫像のように完全な青年である。
 平時はその優れた容貌に性格の屈曲を映して憚らない曹丕が、睡りに目蓋を閉ざすいっときだけは、まるで少年のように抒情的な翳をまとうことを知るのは、彼の周囲に侍る者の中でも、ごくわずかの人間のみであろう。
 その中の一人である司馬懿は、ほっと溜息をつき、床几に歩み寄った。いくら暖かな初夏の夜のこととて、主君をこのような場所で眠らせておいて、風邪でも引かれたら事である。

「曹丕殿――」

 できるだけ慇懃な態度をつくり、牀にお移りくださいませと、そう囁こうとして――
 目を瞑った曹丕のその秀麗な貌に、一瞬、苦悶の表情を見たような気がして、司馬懿は挙措を止めた。

「……?」

 曹丕の伏せられた睫毛、隆い鼻梁、すべてが燈にゆらめいている。
 そのなかで、なぜか色の褪めた唇に眼をあてた瞬間、司馬懿は足下に得体の知れぬ翳が湧きでたような感覚をおぼえた。

「子桓様?」

 気づいた時には、思わず主君の字を呼んでいた。何かが、おかしい。
 曹丕は鋭敏な質であり、ゆえに耳ざとく、眠りも浅い。つねならば、司馬懿が室に足を踏み入れた時点で覚醒し、皮肉のひとつも投げてくるところである。いくら酔っていたとしても、これほどに呼びかけて、眼を醒ます気配がないというのは解せない。
 ――いや、そもそも彼の知っている曹丕には、どれほど酒を過ごしても、病葉のように眠りこんでしまう癖はなかったはずだ。
 そう思い至った瞬間、足下の翳が悪寒となって背を駆けのぼった。

「子桓さ、ま――!」

 凶い予感に色を失い、司馬懿は平素の礼容も忘れて、主君の体に取りすがろうとした。――刹那。
 強く腕を引かれ、視界が反転した。

「な……!?」

 平衡を失ってよろめき、宙に浮いたかと思われた体は、しかし床に落ちることはなく、一瞬後にはがっしりとした骨格に受け止められていた。
 なにが起こったのかとっさに判断できず、かろうじて自由になる首をめぐらせる。
 そしてようやく、曹丕の腕に囚われているのだと認識した瞬間、司馬懿の唇は主君のそれで乱暴に塞がれていた。

「んっ――」

 そのあまりの性急さと烈しさに息がつまり、とっさに身をよじったが、胴にまわされた腕はびくともしない。曹丕が喉奥で笑う気配がした。そして、当然のように舌が割り入ってくる。
 熱い舌に歯列をこじ開けられ、なぶるように上顎をなぞられ、思わず足腰から力が脱けそうになるが、司馬懿は堪えた。したたかに美酒を浴びたのだろう、曹丕の舌は甘い。
 だが、頭の芯を蕩かすような濃い酒精の香に、かえって我を取り戻した司馬懿は、細い腕に必死の力をこめて主君の体を突き退けた。

「――お戯れは、およしになってくださいませ」

 きつい接吻で赤く染まった唇をぬぐい、眦を決して睨みつける。無礼にもかかわらず、曹丕は悠然と寵臣の視線を受け止めた。

「戯れは、嫌いか?」
「嫌いです」

 間髪を入れぬ即答に、曹丕の口元に笑みの形の翳がただよう。

「相変わらず、はっきりものを言う奴だ。そこが良いのだがな」
「…………」

 司馬懿は黙りこんだまま、油断のならぬ主の様子をうかがった。酔っているのは本当らしいが、目の前でこともなげに立ち上がった長身に、挙止の乱れはまったく見受けられない。
 曹丕は、司馬懿の鬱血した唇をじっと見ている。
 その視線に、先刻と同じほど凶い予感をおぼえた司馬懿は、とっさに一歩後ろへ退さり、自衛のための距離を取った。

「私は帰ります」

 言って、即座に踵を返そうとしたが、素早く腕を取られる。

「待て、仲達」

 かえりみた曹丕は口元だけで笑っていた。白皙の顔に蒼く沈んだまなざしは、ひどく暗い。しかし、その瞳の奥に炯々と燃える鬼火をみとめて、司馬懿は息を呑んだ。高貴な獣の飢えと倦怠が、あからさまにその眉宇を支配している。

(まずい)

 と思う間もあればこそ、司馬懿の細い体はふたたび強引な腕に囚われ、幾重もの絹につつまれた牀の上になげだされていた。





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