※18歳未満の方はご覧いただけません。お手数ですがトップページにお戻りください。
宴席の燈明から遁れ出た先では、あらゆるものが深い静寂に沈んでいた。
すでに深更を過ぎた夜の重圧が、微醺をおびた体にむしろ快い。広大な庭に配された池にそそぐ清水のかすかな音、水面に咲き乱れる睡蓮の鋭い香気、そよぐ微風の愛撫、そういったものを感じていると、甘やかな眠気がいま自分の五官だけでなく、森羅万象にまで浸透しているような、そんな胡乱な心持ちがしてくる。
(馬鹿馬鹿しい……)
司馬懿は胸腔いっぱいにぬるい夜気を吸うと、軽く頭を振って、益体もない感慨を意識の隅に逐いやった。
背後では歓楽の声が熄むことを知らぬごとく続いている。
隣席の人間には、先刻、宴のさなかに中座したまま戻らぬ主――曹丕を探してくると言い残してきたが、酩酊にまかせた喧騒の中とて、気に留める者もないだろう。そもそも、いみじくも魏公の息子である曹丕が、そっと広間の扉を抜けて去る姿に気づいた者すら、ごく少数であったように思われた。
司馬懿は元来、宴席の賑々しさも、唇が燃えるような酒も、得手ではない。礼に悖ると承知しつつ、早々に引き揚げるために、おのれの主を口実としたのは確かだが、まるで逃げるように席を立った曹丕の様子が気になったのもまた、事実だった。
(お加減でも、悪くされたやもしれぬ)
と思う一方で、詩作のおりは孤独をもとめる癖のある曹丕のことゆえ、一人きりで飲み直しながら、この美しい夜に浸っているとも考えられる。
(妃妾の室にでも行っていたなら、とんだお節介だな)
それならそれで、憂いなく自分の邸に帰れるので、司馬懿としてはいっこうに構わない。
そんなことを考えているうち、沓先は慣れた道すじを経めぐり、曹丕の居室へとたどりついていた。
居室と呼ばれているが、実際には宮殿内に建てられた公子の邸である。他の建物と同様に広大な中庭に面し、雅趣のある姿を人工の池に映している。
訪いを入れると、見慣れた従者が出てきて、夜分だというのに邸の主に伺いを立てることもなく、うやうやしく奥に通された。司馬懿にとっては常のことであるが、曹丕よりこれほどの厚遇と信頼を得ている臣は、彼をおいてほかにない。
跫の響きやすい廻廊を、勝手知った裾捌きでそっと通り抜け、寝所に至る。
壁に刳られた窓から仄かな明かりが洩れていることで、主は室内にあると知れた。だが人声はしない。楽の音も聞こえず、女が衣服に焚きしめる香の匂いもない。一人きりでいるのだろう。
戸口の前に立ち、まず咳払いをしてから、司馬懿は控えめに声をかけた。
「……曹丕殿、」
返事はない。
「曹丕殿、――仲達でございます、」
名を告げ、応える声を俟たず、司馬懿は天井の高い、暗い部屋に入っていった。
貴人の寝室にふさわしく調度の多い部屋である。空気が動いて小さな火があおられ、壁にゆらめく影が映るのを横目にしながら、司馬懿は注意深く、奥の様子を窺い見た。
「曹丕ど――」
そして三たび呼ばわろうとした声は、半ばで途切れた。
薄闇のなか、床几にもたれて、曹丕は睡っていた。
燈火の赤い反照が、繊細な、だが決して惰弱ではないその彫りの深い貌に、どこか野蛮な彩りを添えている。
くつろげられた衿元からのぞく逞しい胸には、間違いなく若さが息づき、薄闇に艶を帯びてほの白く浮かびあがっていた。
まるで彫像のように完全な青年である。
平時はその優れた容貌に性格の屈曲を映して憚らない曹丕が、睡りに目蓋を閉ざすいっときだけは、まるで少年のように抒情的な翳をまとうことを知るのは、彼の周囲に侍る者の中でも、ごくわずかの人間のみであろう。
その中の一人である司馬懿は、ほっと溜息をつき、床几に歩み寄った。いくら暖かな初夏の夜のこととて、主君をこのような場所で眠らせておいて、風邪でも引かれたら事である。
「曹丕殿――」
できるだけ慇懃な態度をつくり、牀にお移りくださいませと、そう囁こうとして――
目を瞑った曹丕のその秀麗な貌に、一瞬、苦悶の表情を見たような気がして、司馬懿は挙措を止めた。
「……?」
曹丕の伏せられた睫毛、隆い鼻梁、すべてが燈にゆらめいている。
そのなかで、なぜか色の褪めた唇に眼をあてた瞬間、司馬懿は足下に得体の知れぬ翳が湧きでたような感覚をおぼえた。
「子桓様?」
気づいた時には、思わず主君の字を呼んでいた。何かが、おかしい。
曹丕は鋭敏な質であり、ゆえに耳ざとく、眠りも浅い。つねならば、司馬懿が室に足を踏み入れた時点で覚醒し、皮肉のひとつも投げてくるところである。いくら酔っていたとしても、これほどに呼びかけて、眼を醒ます気配がないというのは解せない。
――いや、そもそも彼の知っている曹丕には、どれほど酒を過ごしても、病葉のように眠りこんでしまう癖はなかったはずだ。
そう思い至った瞬間、足下の翳が悪寒となって背を駆けのぼった。
「子桓さ、ま――!」
凶い予感に色を失い、司馬懿は平素の礼容も忘れて、主君の体に取りすがろうとした。――刹那。
強く腕を引かれ、視界が反転した。
「な……!?」
平衡を失ってよろめき、宙に浮いたかと思われた体は、しかし床に落ちることはなく、一瞬後にはがっしりとした骨格に受け止められていた。
なにが起こったのかとっさに判断できず、かろうじて自由になる首をめぐらせる。
そしてようやく、曹丕の腕に囚われているのだと認識した瞬間、司馬懿の唇は主君のそれで乱暴に塞がれていた。
「んっ――」
そのあまりの性急さと烈しさに息がつまり、とっさに身をよじったが、胴にまわされた腕はびくともしない。曹丕が喉奥で笑う気配がした。そして、当然のように舌が割り入ってくる。
熱い舌に歯列をこじ開けられ、なぶるように上顎をなぞられ、思わず足腰から力が脱けそうになるが、司馬懿は堪えた。したたかに美酒を浴びたのだろう、曹丕の舌は甘い。
だが、頭の芯を蕩かすような濃い酒精の香に、かえって我を取り戻した司馬懿は、細い腕に必死の力をこめて主君の体を突き退けた。
「――お戯れは、およしになってくださいませ」
きつい接吻で赤く染まった唇をぬぐい、眦を決して睨みつける。無礼にもかかわらず、曹丕は悠然と寵臣の視線を受け止めた。
「戯れは、嫌いか?」
「嫌いです」
間髪を入れぬ即答に、曹丕の口元に笑みの形の翳がただよう。
「相変わらず、はっきりものを言う奴だ。そこが良いのだがな」
「…………」
司馬懿は黙りこんだまま、油断のならぬ主の様子をうかがった。酔っているのは本当らしいが、目の前でこともなげに立ち上がった長身に、挙止の乱れはまったく見受けられない。
曹丕は、司馬懿の鬱血した唇をじっと見ている。
その視線に、先刻と同じほど凶い予感をおぼえた司馬懿は、とっさに一歩後ろへ退さり、自衛のための距離を取った。
「私は帰ります」
言って、即座に踵を返そうとしたが、素早く腕を取られる。
「待て、仲達」
かえりみた曹丕は口元だけで笑っていた。白皙の顔に蒼く沈んだまなざしは、ひどく暗い。しかし、その瞳の奥に炯々と燃える鬼火をみとめて、司馬懿は息を呑んだ。高貴な獣の飢えと倦怠が、あからさまにその眉宇を支配している。
(まずい)
と思う間もあればこそ、司馬懿の細い体はふたたび強引な腕に囚われ、幾重もの絹につつまれた牀の上になげだされていた。