キリリク小説 | ナノ
雲路の果て
空港に降り立った諒一は、強い風に飛ばされぬよう耳まで覆うファーキャップを押さえていた。 頭の先から足の先まで厚い防寒具に覆われ、出ている肌は顔の一部だけ。そこさえも、寒さでちぎれそうだった。 足早に迎えのリムジンに乗り込み、諒一はファーキャップを取った。 「…お前は初めてか?」 隣に座った小柄な青年に、諒一は尋ねた。青年は少し頷く。 「そう緊張しなくていい。今回の任務は俺の用心棒だ」 もう一度、青年は頷いた。
リムジンを走らせ、ついた先は閑静な住宅街。家と家の間が広く、一軒一軒に付属する大きな庭。そこに積もる白い雪に灰色の空、冷たい空気。諒一はファーキャップを被り、リムジンを降りた。 「寒かっただろう!マイブラザー!」 声がしたほうを見ると大きな体の男が両手を広げてこちらへゆっくりと近づいてきた。分厚いコートを着ていたってわかる男の巨体。でっぷりと脂肪を蓄え、身長も諒一より頭一つ大きく、顔の周りには立派なひげ。そして両端に並ぶ無表情の黒スーツ。 諒一は手袋を一方脱ぎ、男に手を差し出した。 「イワン、お久しぶりです」 「…そっちの彼は?」 男が青年を見る。 「…来たい来たいと言うので連れてきました。私の、プリミャーンニク(甥)です」
大きな暖炉の中の炎に、ぱちぱちと炭が飛ぶ。コートを脱いでメイドに渡し、勧められた豪華な作りの椅子に諒一は腰を下ろした。 いつものようにイワンと向かい合い、テーブルには熱い紅茶が差し出される。イワンの両側にスーツの男は立ち、後ろで手を組みじっと前を見ていた。(おそらく。サングラスをかけているので目線は把握できない) 「では、前回の続きからですが」 諒一が切り出してすぐ、イワンの顔が綻んだ。自分を通り越して後ろに注がれた笑顔だと分かり、後ろを振り返った。 「こっちに来てご挨拶しなさい、リーダ」 もじもじと、控えめにこちらを伺う少女。 「こんにちはリーダ」 諒一の挨拶にリーリアは微笑み、こちらへ駆け寄ってきた。 「リョウイチ!会いたかった!」 リーリアは小さな体ごと諒一の首に抱きついた。 「リーダが一番キミに会えるのを楽しみにしていたようだ」 イワンが笑うとリーリアは 「パパには悪いけど、早くお仕事終わらせてね!リョウイチを独り占めはフェアじゃないわ」 と笑った。
「それは少し急だな」 イワンの顔が険しくなった。 「その要求に応えるのに、我々は何千何万のスェーミヤ(家族)を失う」 「…」 「…いや、もう少し考えさせてくれないか?」 「この3年。十分な時間はあったと思うのですが?…これ以上期限を延ばすことは不利です。こちらとしても、あなたがたにとっても」 「不利…?それは経済国として?君たちは取引国のひとつにすぎない」 嘲笑。 「…取り方は、いくらでも…」 諒一の言葉にイワンの顔から笑みが消える。両側の男たちは片手をスーツの内ポケットに隠した。 「口の聞き方に気をつけろ。私たちは同等ではない。わかったかヤポニェチ」 「…」 イワンはロッキングチェアから立ち上がり、諒一の肩に手を置いた。 「…少し頭を冷やしたらどうだ?ゆっくりしていけばいい。我々も、君たちを失いたくないんだブラザー、なあ?」 「…ダー、ボス」 諒一の返事にイワンはにっこりと微笑んだ。
「リョウイチ…」 イワンが出て行った後、ドアの向こうにリーリアが顔を覗かせていた。 「お話、終わった…?」
「ええ、今度はリーダとお話ができる」 リーリアはぱっと弾ませ部屋に入ってきた。 「リョウイチ」 「何?」 「今回はどれぐらいいられるの?明日には帰っちゃう…?」 「いえ…今回はもう少しいます。君のお父様から良い返事を聞きたいので」 「パパったらリョウイチにイジワルしてるの?懲らしめてやろうかしら!…でも、ちょっと嬉しいかも」 「え?」 「あ、ううん!何でもないわ!…ところでリョウイチ、この人はだあれ?」 「プリミャーンニク」 「似てない!」 「挨拶しなさい」 ロシア語の会話の中、やっと聞き慣れた言葉が耳に入る。青年が戸惑っていると 「日本語でいい」 と言われた。 簡単に挨拶をし、頭を下げると、少女はリョウイチに向き直る。 「なんて言ってるの?」 「初めましてこんにちは。小さな白い妖精さん」 「やだ!」 リーリアは顔をほころばせ喜んだ。 「その長いものは何?」 青年が持つ、タオルでぐるぐるに巻かれている長いバーのようなものに、リーリアは指を指した。 「あ…」 何を言っているか分からないが、明らかに自分の持ち物に興味を抱いていた。答えに困っていると諒一が話す。 「日本で言う『お守り』…タリスマーン」 「大きなタリスマーンね、ふうん、ね、ね、じゃあもうひとつ聞いていい?」 「何でも」 「リョウイチのお仕事は何?」
「…」 「リョウイチは日本で何をやっているの?」 「…」 「パパがね、リョウイチは殺し屋だって言うの」 「殺し屋…」 「おかしいでしょ?でもね、私リョウイチなら殺し屋でもいいの」 「どうして?」 「…だって大好きだもん!」 ピンクの頬が更に上気した。 「リョウイチの、優しい目が好き!」 「目?」 「青は、幸せの象徴よ」 リーリアが笑う。諒一はリーリアの丸い頬に手をあてがった。するりと撫でられ、リーリアはくすぐったそうに身じろいだ。 「リーダ、キミに渡したいものがあるんだ」 諒一は胸の内ポケットから小さな手帳を取り出した。何枚目か捲り紙を破った。そこには押し付けられていた白い花。 「これは?」 「小さくて、白くて、リーダみたいだから連れてきた」 そう言ってリーリアの掌に置いた。リーリアは頬を紅くさせ、諒一の顔を下から覗きこんだ。 「キザなんだから!」 真っ白い微笑みを向け、リーリアは心底嬉しそうだった。
透き通るような白い肌に黄金色の細い髪、ピンクに上気した頬にぷっくりとした小さな唇。背中に羽が生えていそうな、可憐な少女だった。 リーリアの髪に、青年はそっと手を触れてみた。初対面の、言葉も通じない異国のに自分に屈託の無い笑顔を向け、懐いてくれた彼女の細い寝息。それが伝わり、小さな丸みに沿って撫でてみる。慈しむこの気持ちは何といえばいいのだろう。決して、自分が今まで感じたことの無いそれ。無論、受けた記憶さえ無い。青年は手を離し、目を細めた。この汚れた手が触るべきではないと。
青年はそっと寝室のドアを閉め、廊下に出た。そして、奥のドアから漏れる光に気付いた。そこから聞こえてきたイワンの「リョウイチ」。青年は音を立てずに近づいた。 そっと覗くと、そこにはイワンと、黒スーツの男。対面したときのあのにこやかな顔は無く、諒一と『仕事』の話を進めたときに現れた本性、険しいそれ、で口調は厳しかった。諒一に対して好意的な話をしているようには聞こえなかった。「ウビーチ」 「…」 数ある各国の言葉の中で、生死に関する単語、戦うために必要な言葉を叩き込まれた。何の役に立つ?そんなもの、話す前に殺せばいい。その言葉を聞く前に、息の根を止めればいいだけ。そう思っていた自分の考えが、今ここで崩れた。確かにイワンは言った。「ウビーチ」と。 「あいつは殺す」 持っていた『タリスマーン』に手をかけたのと、諒一が背後から声をかけたのはほぼ同時だった。青年ははっと振り返る。 「…」 「どうやら俺はロシアのマフィアに殺されるらしい」 「…」 諒一の表情は変わらない。口調も平坦で、特に何の感情も含まれていなかった。 「雹芽」 ここへ来て、諒一は初めて青年の名前を呼んだ。 「出番だ」 肩を軽く叩かれ、雹芽は刀を抜いた。
リーリアが目を覚まし、その惨状を目の当たりにしたのはそれからすぐのことだった。花火のように、ぱっと血飛沫だけが壁を汚す。屈強のボディガードたちは頭を割られ、拳銃を握ったまま息絶える。そして、リーリアの「パパ!」に一瞬目をやるが、刀はそのまま肉厚の胸を貫いた。 「パパ!!」 リーリアはイワンに駆け寄るが、父親は何も喋らなかった。目を見開いたまま、頭を垂らせ、胸からは壊れた蛇口のように溢れ出す血。 「い、や…パパ!パパ!!…パパぁ!」 「…」 リーリアの白い肌はイワンの血によって紅く染まる。 「どうして…」 小さな妖精は震えながら、それでも大きな目で諒一たちを睨んだ。 「いったいパパが何をしたって言うの!」 自分たちに向けられてきたあの柔らかい表情はない。憎しみのそれが、諒一たちを突き刺す。 「人殺し!」 「…」 諒一は何も言わない。ただじっと、リーリアを見つめていた。雹芽は刀を振り、血を拭いた。だがリーリアの顔は見れなかった。 「ニカグダー ニ ブラッシュー!」 そう言って、リーリアはイワンの胸ポケットに手を忍ばせ拳銃を取る。だがそれより早く諒一がその拳銃を蹴り上げた。小型の銃は弧を描きながら空中を舞い、そのままがしゃんと絨毯の上に落ちた。そして諒一は何も言わず、落ちたそれを拾う。しゃがみ、リーリアと同じ目線に高さを合わせた。 「Я люблю тебя…」 「…」 ふたりに間に沈黙が流れた。そして 「Вы хотите сказать на смерти?」 「сукин сын…」
パンっと乾いた音だけが響き、あとは静寂だけが残った。白い妖精は、父親の胸元に、折り重なるように倒れた。硝煙の臭いの中、諒一は立ち上がり拳銃を捨てる。 「いくぞ」
イワンはロシアでも有数の武器商人だった。世界各国に流通しており、政府や民間問わず、戦争があり金になるところにはいくらでも横流ししていた。イワンたちにとって敵も味方も関係なかった。それは日本も例外ではなく、政府だけでなく地下反乱軍にも輸出していたため、それを突き止めた諒一たちは反乱軍に輸出するのをやめるよう3年前から現地に出向いて説得をしてきた。しかしイワンの答えはNO。政府にとって煩わしい問題を解決するため、今回の訪露で良い結果が得られないのなら殺すよう命じられた。 だが、雹芽にとって疑問がひとつだけ、しかも気持ちの悪い、もやもやとしたものが胸に刺さっていた。 帰りの飛行機の中で雹芽は思う。どうして、リーリアを殺したのか。3年もの間、好意的に慕ってくれていた娘を、どうして殺す必要があったのか。押し花を与えた時、自分を紹介してくれた時、リーリアに向けたあの笑顔は何だったんだ?どうして?恐れ?馬鹿な… 聞きたい。聞きたいが、そんなことを尋ねられるほどの仲ではない。仮にも彼は上司だ。本来なら自分の近くにいない人なのだ。雹芽は口をつむぐ。 諒一は窓の外に目をやっていた。青い空に、白い雲が浮かぶ。
彼女を、殺す必要は無かった。ではなぜ殺した?この手にかけた? 殺さずあのまま、自分への復讐心を糧に生きてほしかった?それとも日本へ連れて帰りBPHに売ればよかったか? 違う。 彼女は白いままでいてほしかった。リーリアはロシア語で『百合』純潔の象徴である彼女に汚れてほしくなかった。彼女には汚い言葉も、世界も、何も必要なかった。 自分勝手? そうだ。 結局は自分のために彼女を殺した。 白いまま、彼女のすべてを自分は奪った。 後悔は無い。 ただ
自分のこの目を、好きだと言ってくれた少女に、僕は泣いてやることしかできないんだと、そう思った。
END
|
|