Something Borrowed



 黒猫が静かにドアを閉めた。淹れたての紅茶の芳醇な香りが辺りに漂っている。チンツ張りの長椅子にゆったりと腰かけた女主人は、たった今運ばせたばかりの三段重ねのトレイから、トリュフをひとつつまんで口のなかにほうり込んだ。黒猫が用意していった紅茶を、ひと口ふた口と啜り、ふと視線を上げて客人を見やると、二人ともいつまで経っても紅茶にも菓子にも手を伸ばさずにいる。
「どうぞ召し上がれ。この前、旦那が出張先から買ってきたのよ。確かフランスの有名菓子店からだったかな?とにかく、おいしいんだから」
 弾む声で言いながら、チョコレートをまた一口。
 腰をおろしたら深く沈んでしまうほど柔らかいソファに、くっついてちょこんと収まっているりんねと桜は、互いに顔を見合わせた。あまりの豪邸なので、二人とも肩身がせまい思いでいるのだが、この屋敷の若奥様は気にもとめない。生まれついての富裕層である死神鳳に、庶民の情緒への理解を求めるのは無理のあることだった。
 鳳が結婚したのは、一年ほど前のこと。仲間内で誰よりも早かった。相手は鳳が幼い頃からそれとなく縁談がもちあがっていたという、死神界きってのエリート一家の子息だった。最初はまるで興味がなかった鳳だが、気まぐれに見合いをしてみたところ、案外そりがあったらしく、とんとん拍子に婚姻が決まったのだという。結婚式にはりんねと桜も招かれたが、その豪華さには目もくらむようだった。ああいう、おとぎ話がそのまま現実になったような結婚式は、一生のうちに二度とお目にかかれないだろう。鳳は花婿にありとあらゆる無理難題を押しつけ、花婿は片っ端から花嫁の願望を叶えてやったらしい。
 ソファでじっとしていると、もう一度、菓子を勧められた。桜は促されるまま、宝石のような高級菓子に手を伸ばすことにした。
「鳳の旦那さんは、優しい?」
「それはもう。私のこと、大事にしてくれてるわよ」
 鳳は頬を上気させている。「あの人と結婚して、本当に良かった」
 りんねの表情がふっと和らいだ。彼への失恋は、鳳にとってはもうすっかり過去の思い出のようだった。
「私も、優秀な彼を見習って、一から勉強し直そうと思ってるの。あの家の奥さんは無能な死神だ、なんて言われて、あの人に恥をかかせたくないもん」
 しばらくは、実地での訓練は無理だけどね。
 ふふ、と嬉しそうに笑いながら、鳳は色とりどりのマカロンからラベンダー色を選んで、口元に運んだ。
「近頃やけに甘いものが食べたくてね。やっぱり、この子のせいかしら?」
 締め付けのない長いワンピースを着ている鳳。彼女がそっと撫でているおなかは、前に会った時よりも、いっそうふくらみを帯びているようだった。
 桜はソファから立ち上がると、鳳の長椅子のそばまで近づいていった。
「ねえ、鳳。もし嫌じゃなかったら、おなかに触ってみてもいい?」
 鳳は赤い唇をほころばせて、頷いた。桜の手をとり、自分のおなかにいざなう。
「わあ、あったかいね。──あ、いま、赤ちゃんが動いたかも」
「触られたことが分かるのかも。桜に、こんにちは、って言ってるのよ、きっと。聞いてみる?」
 桜は床に膝をついて、鳳のおなかに耳をあてた。長椅子の背もたれに頭をあずけている鳳が、天井を見上げたまま、穏やかな表情をして目を閉じる。二人を見守るりんねは、不思議な気持ちになる。ほんの数年前までは、あんなにそそっかしくて、努力することを面倒くさがって、りんねを追いかけ回してばかりいた少女。それが、今はこうして大人びた顔をして、誰かのために勉強してみたい、などという。じきに、母親になるという。子供と大人の境界は、目に見えるようでいて、実は曖昧で、気付けばいつの間にか越えてしまっている。死神も人間も、たとえ違う時の流れに身を置く存在だとしても、きっと、同じことを経験するものなのだろう。
「今日、あんたたちを呼んだのはね──」
 鳳がゆっくりと目を開けて、囁いた。彼女のおなかから、桜がそっと頭をもたげる。
「前に言ってた、サムシング・フォー。私も、何か協力できないかと思って」
「鳳」
「私なりに考えてみたの。だって、大事な友達には、幸せになってほしいじゃない?」
 ちりん、と彼女の手元でベルが鳴ると、先ほど紅茶と菓子を運んできた朧がまた現れた。ほんの数年でぐっと大人びたのは鳳だけではなく、彼女に仕える黒猫も同じだった。やんちゃ盛りの少年から成長したせいだろうか、前よりも口数が減り、物静かな青年になった朧は、今度は金のトレイに別のものを載せている。ダイアモンドのイヤリング、蝶のネックレス、白の長手袋。それはすべて、鳳が自分の結婚式で身に付けていたものだ。
「サムシング・ボロウ、なにかひとつ借りたもの。順風満帆な結婚生活を送ってる人の、幸せにあやかる、ってやつでしょ?」
 どうぞ、と朧が桜にトレイを手渡した。おおきな目を震わせる彼女。しばらく見つめていると、鳳に試してみるように促された。アクセサリーはどれも桜には大ぶり過ぎたので、白の長手袋を手にとってみる。手触りがなめらかで、繊細なレースが可憐で、桜の手にもよく馴染んだ。似合うわ、と鳳が満足そうに頷いた。ありがとう、と囁く声がかすかに揺れた。
 鳳は上目遣いに朧を見上げて、ねぎらうようにほほ笑みかける。朧は一瞬、抑えきれないように口元をほころばせて、けれどすぐにまた、もとの無表情に戻った。
「ありがとう、鳳」
 心からの感謝をこめて、りんねも頭を下げる。お安い御用よ、とかつて身を焦がした青年に、晴れやかな表情を向ける鳳。
「幸せのおすそ分けよ。私はもう、有り余るくらい持ってるから。ありがたく、借りていきなさい」



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(雑記)
とある小噺集の朧鳳のその後だったりする。


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