よきかな


「お嬢さん、私に見覚えはないかな?」
 森の入り口に、見知らぬ老人が立っていた。
 皺だらけの顔で、まるで孫に話しかけるかのような気さくさで、にこにこと穏和な笑みを浮かべている。
 人の良さそうな老人だが、見覚えがない。
「ごめんなさい。どこかで会いましたか?」
 相手は自分を知っているようなのに、面識がないと感じることを申し訳なく思いながら正直にたずねる。
 老人は気分を害された様子もなく、しみじみとつぶやいた。
「会ったとも。『むこう』で一度だけね」
「『むこう』?」
 どこのことだろう、と千尋は小首を傾げる。
 老人が目じりに皺を増やした。
「お嬢さんには、随分と世話になったんだよ」
「はあ……」
「お礼を言い足りないと思っていたんだが、こうしてまた会えてよかった。しばらく見ない間に、大きくなったねえ」
 こそばゆくて、千尋は頬を染めた。
「はい。春には高校生ですから」
 見知らぬ老人だが、どこか懐かしい気もした。小さい頃に面識があった人かもしれない。
「おじいさん、わたしに世話になったと言っていましたね。あの、わたし、おじいさんに何をしたんですか?」
「いいんだよ。思い出せないのなら、そのままで」
 老人は鷹揚に笑った。
「さて、私はこれから一風呂浴びに行ってくるよ。お嬢さんのおかげでね、すっかりあそこの湯のとりこになってしまったんだ」
 千尋の首がまたも傾く。
「おじいさん、その先に温泉があるんですか?」
「ああ。とてもいい湯屋があるんだよ。我々の仲間は、みな贔屓にしている」
 よきかな、と老人は柔和に目を細めてつぶやいた。
 千尋の脳裏に、ほんの一瞬、なにやら懐かしい情景がよぎる。
「そのお湯屋って……」
 湯水のあふれるように千尋の瞳から涙がこぼれ落ちる。
 老人の白く透けた体が徐々に遠ざかっていく。
「お嬢さんのことを皆に伝えておくよ。──もちろん、あの若者にもね」



01.02 / 18 more days


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