仕事を終えて、酒でも一杯飲んで帰りたいな、と考えていたところで、丁度良さそうな喫茶バーを見つけてしまった。
あまりにもしゃれていたので、ビールなんて不似合いだろうが、のど越しを二の次にしたベルギー産のビールぐらいなら置いていそうな雰囲気がする。
どういった力が働いていたのかはわからないが、私は足のつま先をそっちに向けて、一歩一歩、近づいたのだった。
シックな茶色の扉を開ければ、思ったよりも大きな音でジャズを奏でる店だった。
しっぽり、というにはうるさすぎるし、音楽に乗れるかと言われれば曲のセンス的にも音の大きさ的にもちょっと違う。
しかし客層は様々のようで老若男女。
ひとりの客もいれば、五人ぐらいでお楽しみの客もいる。
これなら私も楽しめそうだ。
「何名ですか?」
私に近づいてきた店員が近づいてくる。
「ひとりで」
人差し指だけ立てる行為は、悲しくも慣れてしまった。
それほどに、私には相手がいない。
「こちらどうぞ。飲み物、決まっていたら聞きますよ。注文時支払いです」
ポケットに入っている薄い財布を取り出して、千円札を一枚彼に渡す。
「生ビールいけます?」
「プレモルですけど大丈夫です?」
「はい、お願いします」
通されたカウンターテーブル横に、親切に取り付けられた鞄かけをありがたく使わせてもらう。
ひっかけてしまえばこっちのものだ。
伸びをぐーっと一度やってから携帯電話を取り出してぽちぽちと触る。
すると、
「バーボンロックで」
男の声が降ってきた。
しびれるような甘美な声の主を見上げれば、すまし顔の男がそこには立っていた。
「昨日ぶりだな」
目を白黒させて彼を見ていると、動じずに頼んだ酒を受け取り、口にし、私を見て、笑った。
いつかなんて、心のなかで思ったのはつい昨日のこと。
「また、会いましたね」
なんとなく気まずそうに顔を歪めて挨拶してやれば、彼はこの運命を面白がるように笑っている。
「一応聞きますけど、追いかけてきた、なんてことはないです、よねぇ?」
「随分と自意識がすぎるじゃないか」
「あんな札束なんて大金持ってるひと、あぶないひとと思うじゃないですか。そんなひとにあれよこれよと求めたのも私ですけど」
「わかっていたのか」
「疲れてたんですよ。……まあ、あなたも目の下のクマ、消えてないみたいですけど」
言えば、ああこれは、とでも表したかのような顔で自身のクマを彼は指先で撫でた。
「体質だ。寝不足でなくともいつもある」
「ああ、そうなの。そういう割には昨日、疲れてた風だったけど」
「まあそうだな」
「そうなの」
続かない会話は別に気まずいとかそういうのでは全くなかった。
むしろ無駄な会話がない分、ちょっと心地よくさえもあった。
「君の隣に座ったのには、理由があるわけだが」
次に口を開いたのも彼だった。
名前も知らないし、危なそうな男と口を利くなど、言語道断だろうか。
それでも良い男を見逃したくないのは、女の性である。
「へえ、なあに」
「昨日、熱烈だったからな」
「ああ、キスのこと?」
彼は酒のはいったグラスを傾けた。
カラン、と音が鳴った。
まるで彼の代わりに返事をしたかのようだった。
「なに? もうちょっと溺れたかったー、とか?」
「いや、そんな簡単な話じゃない」
ふーん。私は手に持ったビールを口元で傾けた。
半分まで飲み干して、息を吐く。
ビールジョッキってこんなに大きかったっけ。
「じゃあもしかすると、私と一緒のことを思っているかも」
あなたはだれ? どこでなにをしているひと? あんなキスはどこで覚えたの? なぜこんなところにいて、どうして私が気になったの?
「君をもう少し知りたいと思った。どうだ」
残り半分のビールを今度こそ一気に飲み干してやった。
最後に口に広がる気泡が大きめの泡も喉奥に流し込み、店員を呼んだ。
「バーボンロックで」
物怖じもせずに彼が飲んでいた酒と同じものを頼み、すぐにやってきたグラスを彼に向けて軽く掲げる。
「再開に乾杯」
すると彼は、やっぱりどこかすましているのだけれど、楽しそうに口角を上げて私のグラスと距離を離して持っていたグラスを掲げ返してくれた。
この距離が近づくころには、私は彼に完全に溺れてしまっていることだろう。
「このあと、空いてる?」
赤井さん夢の『欲の塊』の続きでした。
こちらも五年越しの更新で大変申し訳ございませんでした……