bocca chiusa
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誘い


 指定されたバーに入った瞬間、すぐオレはカウンターにシャルナークの背中を見分けた。

「待たせたか?」
「時間通りだね、フィンクス」

 シャルはこちらを向きもせずにそう答えた。黒いサングラスに黒いスーツ。髪も後ろに上げて、まあありがちな変装と言えばそうなんだが、このクラスのホテルなら浮かず沈まずちょうど良い。無論オレも、同様の格好をしている。そういやウボォーに馬子にも衣装、と言われたっけな。

 横に座って見やると、グラスが空だった。やっぱ待たせたか……相当怒ってるな、これは。同じものをもう二つ頼み、一つをシャルに滑らす。シャルは何も言わずに口をつけ、指先でカウンターをトントンと叩いた。

 オレが黙って手を差し出すと、一瞬包むように手を重ねる。握らされたのは小さなメモリースティック。

「依頼されたターゲットのデータ、全部入ってる。いつも通り、見終わったらさっさと破壊すること」
「サンキュー」
「倍額振り込んどいてよ」
「……了解。悪かったな」

 会話はそれだけで途切れた。
 身がもたない。
 何か言わないと。何か。

「怒ってるだろ」
「怒ってないよ」

 実にわかりやすい男だ。
 やっぱりまだ怒ってるんだな。
 でも今、口元だけで少し笑いやがった。
 一瞬だが、見逃さねぇ。

「団長から連絡あったか?」
「まだ」

 オリーブを噛みながら、空になったグラスをこれ見よがしに傾けてみせる。……ちっ、わかったよ。お望み通り追加オーダー。まったく、金のかかるやつだ。しかし文句は言えない。

「ヒソカは?」
「音沙汰なし」
「……辛いな」

 思わず呟くと、シャルがくすっと笑った。

「G.I.でも言ったろ、もう時間の問題だって。また『乙女ちく』言われるよ?」
「わかっちゃいるけどさ」

 イラっときてグラスの残りをガーっとあおると、シャルがやっとはっきり笑った。オレはここへきてようやくホッとする。いや、ムカつくけどな。

「あのさ、もう怒ってねぇよな?」
「笑わせてくれたから、いいよ」

 手をひらひら振って、ようやくこっちに顔を向けて。

「ただし、次は無いからね。ってオレ、これ今まで何回言った?」
「いや、今日初めて聞いた」
「ほー。言うね、フィンクス」

 サングラスをちょっとずらして、ちらりと笑った目を見せる。
 この緑を久しぶりに見た。そんな気がした。

「やっぱお前、綺麗な目してるな」
「なんなの、いきなり?」
「そんなに笑うことないだろ!」

 機嫌を直してくれたのは嬉しいけどな。そう言おうかと思ってやっぱりやめる。藪に蛇が何匹いるか、わかったもんじゃない。
 と、ウェイターがオーダーストップを知らせてきた。もうそんな時間とはね。飲むか?と目だけで聞くと、シャルは小さく首を振った。オレは懐の財布を探す。こんな高級バーで、カード無かったら軽く死ねるな。……うん、良かったあったあった。いくら何でも、本チャンの仕事の前に余計な騒ぎは起こしたくない。

「フィンクスは、どっか宿とったの?」
「いや、このまま行くわ。このへんのホテルが全部埋まっててな。ま、なんとかするよ」
「相変わらず詰めが甘いね」

 仕方ないな、とシャルは肩をすくめた。

「オレ、ホームには明日帰るつもりでここに部屋取ったんだけど。泊まってく?」
「お前と一緒に寝るなんてごめんだね」
「誰が一緒に寝るなんて言った?フィンクスがソファで寝るんだよ。エクストラベッドって手もあるのに」

 顔がカーッと熱くなった。
 そりゃそうだ。何言ってんだオレ!
 シャルは含み笑いをして、仰々しくオレの肩に腕をかける。

「ねえ、どうしてそういう発想になるわけ?それとも、オレと一緒に寝たいなら寝てやってもいいけど」
「お前、いくら何でもその言い方は卑猥だろ!」
「へえ、やっぱりそういう意味に取っちゃうんだ」

 二の句が継げない。がんじがらめだ。

「どうする?フィンクス」

 サングラスを外した上目遣いがオレを撃ち抜く。暗い照明の下で光る、その緑。

「さっき綺麗な目だって言ったよね。もっと近くで見てみたくない?」
「お前、酔ってないか?な?酔ってるだろ?」
「そうかもね。だから今日だけ。次は無いよ」

 今日だけ。
 その言葉がやたらエロく聞こえて、思わずゴクリと喉が鳴った。
 薄笑いを浮かべるシャル。

「まったくフィンクスは、オレを笑わせるのがうまいんだから」
「まったくシャルは、オレを笑うのがうまいよな」

 憎まれ口しか返せないオレに、シャルは今度は屈託無く笑って、スツールからするりと降りた。


「で、オレが上かフィンクスが下か、どっちがいい?」
「お前なー……」
「あっ間違えた。いいよ、オレが下でも。好きな方選んで。コインで決めてもいいし」

 置かれたチェックのプレートを、ごく自然にシャルが取ろうとしたので、オレにも一応メンツってものがある、無理やり手から奪い取ってやった。ひと睨みするとシャルは邪気の無い顔でふんわりと微笑む。思わず、聞いちまった。

「お前、その調子で何人喰ったんだ」
「聞きたい?なら、場所変えてじっくりとね」
「やっぱり聞きたくねぇ」

 バーを出る。
 深夜、ラウンジには人もまばらだ。エレベーターの前、上行きと下行きの箱が同時に向かって来る。下行きに乗ればエントランス。上行きに乗れば、……

「さ、早く選んでよ。フィンクス」

 オレは指を伸ばしてボタンを押した。どうせ、オレらはもう酔っぱらってるんだ。今日がどうなろうと、知るもんか。
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(c)ソト@bocca chiusa

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