DOG | ナノ


▼ 02

市之宮はもう一度視線をグラウンドに戻す。すでに競技は始まっており、最初の何列かがスタートしていた。

「先生は徹平の特別だ」
「…」

その言葉に違和感を感じた。

――俺が、九条の、特別。

違う、と咄嗟に反論できなかったのは、既に九条を特別な存在だと認めてしまっていたからではない。あの日、九条に向かって「お前を俺の特別にしてやる」などと約束を交わしてしまっていたからではない。

それとはまた別の、異なる部分に違和感はあった。

――この間と、言い方が、違う。

体育倉庫に閉じ込められたとき、確か市之宮はこう言ったはずだ。

「徹平は先生の特別だ」と。

俺にとって九条が特別なのと、九条にとって俺が特別なのとじゃ話が全く違う。聡い市之宮のことだから、こんな単純な言葉のミスはしない。

ならば、どうして。

「…お前」

口を開きかけたそのとき、市之宮が俺の腕に触れた。

「徹平、走りますよ」

つと顔を上げると、スタートラインに九条が並んでいるのが見える。地面に膝と手をつき、スタートの合図を静かに待ちながら真っ直ぐに前を見据えていた。そういう顔もできるのか、と少し驚いた。

パン、と短い鉄砲の音が鳴る。腕に触れている市之宮の指が、ぴくりと動いた。

――確かに、速い。

以前一度、体育をしている姿を見たことがあった。そのときはサッカーの授業だっただろうか。

ちょこまかとすばしっこく動いて、ボールを追いかけて、楽しそうに笑い声をあげる姿は、まさに犬だと思った記憶がある。それもそう遠くない記憶だ。はっきりと鮮明に思い出せるくらいの。

今もそうだ。決して背が高いわけでもないし、脚が長いわけでもないし、体格だってよくない。だけど誰よりも速く走る。一番先頭を。軽々と。

だから俺は言ったんだ。実際に口に出して伝えたわけではないけれど。

そんな風に真っ直ぐに、俺のことを追いかけてくればいい。俺からは近寄ることも歩み寄ることもしない。でもお前が走ってくるのなら、足を止めて待っていてやるから。

徹平、と市之宮が小さく呟いた。あぁそうか、と俺は気付く。

――人を好きになるとか、そいつの何もかもが欲しいとか、誰にもとられたくないだとか、そういう気持ちを抱く奴の頭の中は一体どうなっているんだろう。

ましてやたった一人のためだけに、自分の身を犠牲にできる輩の嗜好など、俺には到底理解はできない。

一目惚れしたんです。

市之宮は俺の目を真っ直ぐに見て、そう口にした。一点の曇りも無い瞳だった。

そう、一点の曇りも無い。

「…市之宮」
「はい?」
「お前が好きなのは、俺じゃなくて九条だろ」

――市之宮が九条を思う気持ちに、何一つ曇りはなかったのだ。

俺を好きだなんて嘘をついたのも、強引に迫ろうとしたのも、全ては九条から俺を離したかったがゆえの行動だった。

九条の傍にいるために、市之宮は自分の身を俺に差し出しそうとしたのだ。

「…やっぱり先生の目は誤魔化せなかったな」

市之宮は静かに俺を見上げた。やはりその瞳は濁り一つなく、どこまでも透き通っている。

「…当たり前だ」
「いけると思ったんですけどね。自分で言うのもなんですけど、俺結構綺麗な顔してるじゃないですか。ハーフみたいだってよく言われるし」

ぱっと掴まれた腕が解放される。市之宮は自らの思惑がばれてしまったことに対して動揺する様子も見せず、むしろ予想していたのだろう。少しだけ寂しそうな笑みを見せた。

「先生が俺に惚れてくれればいいと思ったんです。例えそれで徹平に嫌われたとしても、俺じゃない人が徹平の特別であり続けるより、その方がずっとマシだって」
「俺はお前の思惑通りになるほど単純な男じゃねぇよ」
「でしょうね」

九条が走る。市之宮の瞳がそれを追いかける。そして俺は、そんな二人の様子を交互に眺める。

「先生の言う通り。俺が好きなのは徹平で、先生じゃない」

九条がゴールしたそのとき、市之宮はやっと口を開いた。言い訳一つしない潔さは、少し好ましいと思う。

「誰にも渡したくなかったのに。徹平の一番近くにいるのは俺だと思ってたのに」
「今だって、そうだろ」

市之宮といるときの九条は、他と違う。最近は授業にもきちんと参加するようになったおかげか、当初と比べて随分クラスに馴染んではいる。だが本当の意味で心を許しているのはやはり市之宮だ。それは見ていてもすぐにわかる。

「いいえ。違います」

だが市之宮は俺の言葉を即座に否定した。僻んでいるわけでも怒っているわけでもなく、ただただ悲しそうな声色で。

「あんな徹平、俺は知らない」

まるで俺が生徒一人の人生を変えてしまったような言い方だ。しかもそれを頭から否定できない自分がいるのが腹立たしかった。

――あの子を変えたのは、他ならない藤城先生なんですよ。貴方だって変わらなきゃ不公平です。

いつか中津川に言われた言葉が頭を過る。

皆、皆俺に言う。九条を変えたのは俺だと。だからその責任をとれと。

責任って、なんだ。

変わるって、どうすればいい。

他人に聞いたって仕方のないことだ。例えその問いに答えてくれる奴がいたとしても、そいつの言う通りになんて死んでもしたくない。俺は自分のことは自分で決める。

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